預言を聞いて義務を果たさなければ、残りの人生は呪いである


1.


預言をないがしろにしてはいけません。(1テサロニケ5・20)

それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。(1コリント14・22)

愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。(1コリント14・1)

私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。(ローマ12・6)

現代の教会が「預言は聖書の完結とともに廃れた」と考えているのは、重大な誤謬である。

聖書のいかなる箇所においても、預言が廃れたと記されていない。

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。(1コリント13・8)

もし新約時代に預言は廃れたというなら、「知識」も廃れたということになる。

「知識」の賜物は「キリストのからだ」を建て上げるための重要な賜物である。

ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ・・・ています。
しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。(1コリント12・8-13)

預言は、現代のクリスチャンにとっても重要であり「ないがしろにしてはいけ」ない。

クリスチャンの誰かが、「自分の思いとは無関係に」何かの言葉が御霊によって与えられたならば、それを無視してはならない。

その預言が本物であれば、その預言者は、自分しか知らない心の秘密を語るだろう。

しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、
心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。(1コリント14・24-25)

預言を聞いた人は、その対象となる人に伝えなければならない。

なぜならば、神が預言を与えられるのは「知らせるため」だから。

それによって人間関係が破壊されるかどうかは関係がない。

「このような預言が与えられたが、相手に伝えると、きっと私のことを逆恨みするに違いない」と考えて黙るならば、その人は、偽預言者である。

2.

聖書に記された真理は、聖書記者に与えられた預言であるから、御言葉を伝えることも、そして、その御言葉に基づく教理を語ることも預言である。

それゆえ、御言葉や聖書的な教理を聞いた人には、重大な責任がある。

御言葉は「両刃の剣」である。

また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。(黙示録1・16、2・12)

御言葉と同様に聖書的な教理も、聖書的な預言も両刃の剣である。

これらを聞いた人には、剣が突きつけられている。

剣は切り裂くためにある。

つまり、御言葉や教理や預言はすべて「裁き」を伴う。

預言を軽んじることは、「剣を突きつけられているのに、それを無視すること」と同様であり、重大な結果を招く。

従って命を得るか、逆らって滅びるか。

預言が語られる前と後では、まったく状況が変わっていることを理解すべきである。

3.

聖書的な意見を聞いて、それを信じた人は「学校」に入ったのである。

高校に入ってから、中学校に入り直すのは、馬鹿げている。

もちろん中学校でサボった勉強をやり直したいなら別である。

中学校の勉強を修了し、高校に進学したならば、中学校に後戻りできない。

再建主義を勉強し、それが聖書的であるとわかった後で、福音派やカリスマ派の教えに戻ることはできない。

高校の知識がある人が、中学校の授業を受けても苦痛でしかない。

4.

ヴァン・ティルという人が現れたならば、ヴァン・ティル以前に戻ることは不可能である。

なぜならば、ヴァン・ティルは預言者として神が送られた人だからである。

彼の神学は、御言葉の理解を厳密化した。

ヴァン・ティルを無視することは、神を無視することであり、両刃の剣で切り裂かれることを意味する。

切り裂かれることが嫌ならば、ヴァン・ティルに反論しなければならない。

しかし、それは不可能である。

ヴァン・ティルはきわめて聖書的だからである。

同じように、ラッシュドゥーニーの教えを聞いて、それを無視するならば、残りの人生は裁きである。

預言者を無視した王が滅びた記事は、聖書に溢れている。

5.

インサイダー取引で逮捕されたある社長が「(会社の内部事情を)聞いちゃったんですよ。だから逮捕されてもしかたがない」と告白した。

会社内部の情報を知る人間が、重要事実についての情報公表前に株式の売買等を行うことは、法律違反である。

「知識があるかないか」はそれくらい重要である。

預言とは知識の伝達である。

もし自分が預言者から「聖書的な教えを聞いた」ならば、それ以前と以後ではまったく立場が異なる。

神の裁きの座の前に立たされたときに「私はお前にこのことを知らせておいた」と言われる。

知識がない人と知識がある人では、刑罰の度合いはまったく異なる。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12・48)

多くを知った人は、それ相当の責任をかかえこんだのである。

6.

私は多くのことを学んで「知ってしまった」ので、多くを要求されるだろう。

それだけ裁きは厳しいものになるだろう。

預言は従う者には、祝福であるが、逆らう者には、呪いでしかない。

多くを知った後に「知りませんでした」は通用しない。

自分の知識に応じて義務を果たさなければ、残りの人生は呪いである。

 

 

2018年12月21日



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