聖書信仰対フリーメイソン
(1)
律法の問題、創造と進化の問題、終末論の問題、天皇に関して、イスラエルに関して、様々な点で、今流行の教えとわれわれのそれとは異なる。
われわれは、セオノミーを信じる。
セオノミーとは、聖書法は、旧約時代だけではなく、新約時代においても有効であるとする立場である。
それに対して、流行の教えは、理性の自立を認め、聖書法の上に人間の法を置いてもよいとする。
だから、「キリスト教は教会の中の問題だけ扱える。世俗の問題については世俗の学問を重視する」と考える。
今のキリスト教は、それゆえ、首尾一貫していない。
実生活については、ノンクリスチャンの考え方でやっていくべきだというから。
しかし、一部については、「ノンクリスチャンではだめだ」というので、首尾一貫していない。
たとえば、「タバコは罪だ」と。
なぜタバコが罪かというと、健康によくないからと。
「クリスチャンの体はキリストに買い取られ、御体の一部になっているから健康を保つべきだ」と。
タバコに関しては、聖書法が世俗法よりも優先されるべきだという。
しかし、教育については、世俗の考えが聖書の考えよりも優先されるべきだというのである。
「学校教育を否定して、ホームスクーリングをやる?極端だ!」と。
子供に創造論に立った世界観を教えようとするわれわれに対して「そんなことをすれば社会に適応できなくなる」と。
われわれは、いつも同じ原理で動く。
聖書法はすべての法に優先し、聖書啓示はすべての学問に優先すると考える。
(2)
さて、今の流行のキリスト教は、つきつめると、フリーメイソンの教えなのだ。
フリーメイソンは、聖書法よりも無宗教の法の優先を説き、聖書啓示よりも科学の優先を説く。
フリーメイソンは、宗教的中立、政教分離を説くが、今のクリスチャンも政治は中立の領域であって、聖書と無関係だと考えている。
今のキリスト教の終末論であるディスペンセーショナリズムのプレ・ミレは、フリーメイソンのそれである。
つまり、今の世界はキリストの王国ではなく、再臨に続く千年王国においてはじめて王国になると。
だから、現段階においてクリスチャンが世界を支配する必要はないし、また、できないと説く。
フリーメイソンも、今の世界を支配するのはクリスチャンではなく、科学と政教分離を信じる中立人であると説く。
世界は進化によってできたのであって、創造によるのではないと、熱心ではないクリスチャン(本来熱心ではないクリスチャンなど原理的に存在しないのだが)は信じている。
六日創造説を否定し、それを笑う。
(3)
われわれの戦いとは、フリーメイソンによってすっかり洗脳された人々の目を覚まさせ、聖書啓示と聖書法を究極的権威として持つ体制を作ることである。
今の世界をつきつめると、聖書信仰対フリーメイソンの戦いなのだ。
2012年10月20日
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