からし種かどうか見分けることが最も大切である
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、
どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」(マタイ13・31-32)
天の御国とは、神の国のことである。
神の国は、最初「からし種」のようなもので、「どんな種よりも小さい」。
神の国を開始する人は、量的にも質的にも「小さい」。
彼らは少ない。また、この世の有力者でも有名人でもない。
とりたてて何かの才能があるわけでもない。
誰も見向きもしないごく少数の人々から神の国は始まる。
しかし、その背後に神がいらっしゃるので、「生長すると、どの野菜よりも大きくな」り、「空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木」になる。
つまり、大きさという点で、野菜の域を超えて、木になる。
神の国は、極小から極大に変化する。
「鳥が来て、その枝に巣を作る…木」とは、この世の有力者や有名人が拠り所とする存在である。
なぜならば、鳥を支える枝は太くなければならないからである。
この世の有力者や有名人は、大きな拠り所を必要とする人々である。
彼らは、巨額のお金を動かし、多くの人々に影響を与える。
神の国は、そのような人々でも、やってきて依存したいと思う存在になる。
鳥は、からし種のような小さなものを無視する。
腹が満たされないからである。
神の国を開始する人々が、最初から大きな種になろうとする必要はない。
鳥に食べてもらえるほどの大きな種になろうなどと考えるべきではない。
つまり、金持ちや政治家、有力者を相手にする必要はないということである。
教会成長学は、このような人々を相手にしようとするから、おかしくなる。
さかんに有力者を獲得しようとする。
有力者の力で成長しようとする。
違う!
神の国を作ろうとする人々は、からし種のように、有力者から評価される存在でなくてもいいのである。
自分は無力でもいい。才能がなくてもいい。能力がなくてもいい。魅力に乏しくてもいい。
力は、生長とともに、神が与えてくださる。
神の国を作ろうとする人々に必要なのは、「からし種であるということ」だけである。
ほかのものではダメである。
種を間違うと、生長しても大きな木になれない。
育ててみたら、「あれっ?こんな木にしかならないのか」とがっかりする。
「聖書に忠実である」という点で間違うと、大きな木にならない。
人々の歓心を買うために教えにおいて混ぜものをするならば、そこそこの木しか育たない。
なぜ日本のキリスト教がいつまでもメジャーにならないのか。
蒔く種を間違えたからである。
教えが聖書からずれているからである。
人々に嫌われても、聖書の教えを純粋に説かねばならない。
なぜならば、聖書の教えには「大木」になる可能性が秘めているからである。
以前在籍していた教会の主任牧師が「教理教育なんて地味なことをやっているから、キリスト教はぱっとしないんだ。創価学会を見なさい。日本人にはああいう派手なものが似合っているんだ」と言っていた。
蒔く種を間違えたので、低木しか育てられなかったのである。
もしわれわれが、しっかりと「からし種」であるかどうかを見極め、それを蒔くならば、必ず成功する。
サタンは、「こっちの種のほうが伸びるよ」と別の種を蒔くように誘惑するだろう。
教会成長学は、無数の牧師に、そのような種を勧めてきた。
勝ち組になる秘訣は、徹底して聖書的であろうとすることにある。
そして、それを人々に説き続けること。
成長させてくださるのは神である。
われわれの仕事ではない。
純粋な福音を保ち、説き続けるならば、必ず、世の全体がそれに依存するくらいの強力な存在になる。
聖書的キリスト教を唱えた段階で、われわれはすでに成功したのである。
2016年4月4日
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