霊的戦いに備えるべし


(1)
以前霊的な戦いについて無知だったころ、簡単に不安の霊を入れていた。

「入れる」という表現がふさわしいのは、実際に霊は、われわれの隙をついてわれわれの至聖所に入ろうとするからだ。

庭や聖所ならまだいい。

至聖所に入ると大変なことになる。コントロールされるから。

いったん入られると、なかなかそこから抜け出せない。

頭で理解して理性で解決しても、不安が払拭できないのは、まだ霊的に体から出て行かないからだ。

未熟なクリスチャンは、いろんな書物を手に取ってそこに書かれている不信仰な記述に影響される。

ノンクリスチャンが書いたものは、注意して読まないとわれわれから確信を奪い、土台を崩し、心を乱す。

だから、子供のころに世俗の学校に通って、世俗の世界観を吹き込まれてまともなクリスチャンに育つことを期待するほうがおかしいのである。

学校教育法なるものは、義務教育だけではなく、「学校に通わせなければならない」「文部省認定教科書を使用しなければならない」と規定している。

明確な「信教の自由」の侵害である。

思想において間違うと全部間違う。

進化論とかジェンダー・フリーなどの悪い思想を心に入れるならば、クリスチャンとしての至聖所は確実に破壊されて、悪霊が入る。

悪霊は至聖所に入って、ケルビムの羽と契約の箱の蓋が作る三角形の向こうからこちらを見る。

つまり、「ピラミッドと目」である。

われわれの子供の至聖所の中に「ピラミッドと目」がある。

こんな恐ろしいことがあるだろうか。

間違った思想は、悪霊の至聖所への侵入である。

クリスチャンであったマルクスは、ある日、至聖所に悪霊を入れ、めちゃくちゃに破壊された。

それからまったく変わった。

彼は、キリスト教を敵視するようになる。

共産主義が世界を席巻し、悪霊に憑依された人々が各地の教会を破壊して回った。

無数の人々が殺され、収容所に送られた。

すべては、至聖所に誰がいるかによって決まる。

子供に聖書と異なる世界観を教えることは、子供の至聖所に悪霊を入れることと同じだ。

(2)
バプテスト派にいたころ、滴礼(頭に水を垂らす洗礼の方法)は間違いだとさかんに教えられた。全身を浸ける浸礼だけが正当だと。

しかし、聖書にはそんな記述はない。

旧約律法において、聖めは、水を振りかけることによっても達成された。

滴礼が正当だと思うのは、頭は神の臨在を象徴し、山頂と対応するからだ。

山頂に雨が降って、それが中腹のエデンの園を潤し、そこから、四方に川が流れる。

頭に水を垂らし、その水が腹から出ていく。

クリスチャンはエデンの園であり、われわれの腹から祝福の水が流れ出ている。

実際に、19歳のときに一人で聖書を読んでいるときにこの体験をした。

腹から水が出ている感覚がした。

ちなみに、30代で油注ぎも体験した。聖霊が自分の頭から肩に油のようにかかったのがわかった。その油がかかった部分だけに、聖霊の臨在を感じた。

滴礼は、クリスチャンがエデンの園として作られていることを示しているので正しいと思う。

(3)
人体は、幕屋もしくは神殿である。

幕屋や神殿は庭→聖所→至聖所という構造になっていた。

だから、人体も同じ構造になっている。

おそらく頭が至聖所なのだろう。

ここに心があり、神はわれわれの脳に住み、脳をコントロールされる。

悪霊は、われわれの中枢を支配しようとする。

だから、聖所や庭にあたる人体の部分に入ってもあまり効果はない。

彼らは至聖所である脳に入り、コントロールしようとしている。

あまりにも罪を犯し続けると、コントロールがきつくなり、多重人格者になる。

まったく別の自分が複数住んでいるような状態になる。

行動に一貫性がなくなる。

だから、宮聖めをすべきだ。

悪霊を縛れ。

「主イエスの御名によって命令する。○○の悪霊よ、お前を縛る。」と祈れ。

そして、「底知れぬところに投げ込み封印する。そこから二度と出てくるな」と。

この場合、中途半端な信仰だと効果がない。信じ切ることだ。

そして、至聖所に聖霊を招く。

聖霊にコントロールされなければ、われわれは悪霊に振り回される。

日々戦いだ。

悪霊は、隙を狙って入ろうとしている。

反聖書の教えを捨てて、信仰で防衛すべきだ。

疑いが入りそうなら「うるさい、黙れ、下がれ」と言え。

せっかく正しい教えを学んでも、自分に献身していない部分があると、簡単に入られて支配されるのだ。

エペソ6章を読んで、霊的戦いに備えるべし。

 

 

2013年2月12日



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