「悔い改めることができない」状態は最後の状態である
(1)
何度も紹介したが、ある著名な牧師は「瞬間移動ができる」と公言している。
何度か瞬時に空間を移動したことがあると。
この発言が本当かどうかわからないが、しかし、可能性はある。
ピリポが瞬間移動した。イエスもされた。
イエスのニュー・ワールド・オーダーにおいて、人間は、瞬間移動の可能性があると聖書は啓示している。
それに対して、「そんなことあるわけがない。物理法則に従わないことは一切起きない」というクリスチャンがいる。
彼はクリスチャンではない。
なぜならば、聖書を超えたから。
聖書啓示は絶対である。
なぜならば、神の言葉だから。
神ご自身が「これを信じなさい」と命令された言葉である。
それを「いや、そんなはずはない」といったら、「私は神よりも偉い」と公言するも同然である。
これは、きわめて重い罪である。
われわれは、聖書に照らして判断すべきだ。このような認識論を確立しない限り、何度も何度も失敗する。
異邦人キリスト教であったヨーロッパやアメリカのキリスト教は、自然法という神の法よりも高い法律を信じてきた。
聖書啓示よりも、哲学を優先した。
そのために大きな呪いを被ってきた。
われわれ、日本人は、この過ちを繰り返さないようにしよう。
(2)
占いは悪である。
占いによって未来を知ること、人柄を知ることは悪魔の知識である。
だから、悪魔に心を支配され、最終的に精神病になってもおかしくはない。
科学は悪ではない。
なぜならば、神は自然を「神の第2の啓示」としてお与えになったから。
自然や人間や社会を調べることを通じて、われわれは、神の御心を知る。
ただし、この科学的知識(一般啓示)は、聖書(特殊啓示)よりも優先してはならない。
エデンの園におけるエバの失敗は、特殊啓示よりも一般啓示を優先したところにある。
神が「食べてはならない」と言われたのに、「魅力的に見えた」という一般啓示を優先した。
われわれも、他人の妻が美しいので、彼女に異性的な情を抱くことは姦淫の罪になる。
「美」という一般啓示は、「姦淫するな」との特殊啓示に優先してはならない。
聖書よりも科学を優先することは罪である。
(3)
体型によって性格を知る方法がある。
ドイツの精神医学者のクレッチマーは、体型によって性格を3つに
分類した。
「肥満型」は気分障害の患者に多く、明るく社交的で親しみやすいが、感情の起伏が定期的にありその差が大きい。
「やせ型」は統合失調の患者に多く、神経質で人との関わりを嫌う傾向があり、敏感な面と鈍感の面を持っている。
「闘士型」はてんかんの患者に多く、執着心が強く几帳面で融通が利かない、怒りの感情をうまく出せず突然激怒する。
http://mentally.web.fc2.com/index/taikei.html
これは、体型と性格に何らかの関係があるとクレッチマーが経験と観察を通じて判断したものである。
1)体型と性格の関連付けは、経験と観察による科学の手法であり、占いではない。
じゃあ、2)星の動きを観察し、人の運命と関連づけることも正しいのか、という話になるが、これは占いである。
1)と2)はどのように違うのだろうか。科学と占いはどう区別すべきか。
基準は、論理的妥当性である。
体型と性格の関連付けには、遺伝子上の関連の可能性があるが、星の動きと人の運命には論理的妥当な因果関係がまったくないからである。
掌の筋と結婚運の間に論理的妥当性があるだろうか。
たとえば、「料理のうまい人は、掌をこのようによく動かすので、ここに筋ができる。だから、結婚に向いている」というような理屈がつけるならばいい。
しかし、掌の筋と結婚の可能性はまったく関係がない。そこに論理的妥当性はまったくない。
しかし、体型と気質については、DNA上で互いに同じく影響する染色体のセグメント上にある可能性がある。
やせ型の遺伝子と神経質の遺伝子が同じセグメントにあり、関連して形質を形成する可能性は否定できない。
だから、クレッチマーの体型気質類型を信じるからといってそれを占いと判断することはできない。
論理的妥当性がある場合に、その研究は、神の啓示である自然の謎を紐解くことであり、それゆえ、合法である。
(4)
われわれクリスチャンは、自分の行いや信仰について、言葉で説明できなければならない。
言葉で論理的にはっきりと行動の合法性を証明できなければ、それは、聖書を超えること、つまり、神になることに等しい。
もしある人の行動や考えが間違っているならば、言葉で聖書から説明する責任がある。
単に「瞬間移動?ありえないでしょう!そんなことができる人がいるならば、それは、悪霊に取りつかれていますよ」としか言えないならば、それは、聖書を超えて自分が神になっている最大級の罪である。
瞬間移動がなぜありえないのか、聖書から説明しなさい。
「ピリポやイエスが瞬間移動されたのは、聖書の時代だから」という人がいるが、「じゃあ、聖書の時代しかこれは起きません」と説明するための聖書的根拠は何ですか、と問いたい。
じゃあ、「復活も聖書の時代しか起こらない」となぜ言えないのか答えられなければならない。
(5)
非六日創造説は異端である。
創世記一章の「日」は「朝」と「夕」があった。つまり、われわれの一日と同じであった。
もしそれが「地質学的な長期」であると言えるならば、「朝があり夕があった」という箇所をどう解釈するのか。
「朝」と「夕」というヘブル語が、文字通りの「朝」と「夕」以外の意味でつかわれている場合があるのか。地質学的長期と解釈できるような意味でつかわれているのか。
ないのだ。
だから、神は文字通り天と地を創造されたとわれわれは信じなければならない。
われわれを教育した人々は、残念ながら、この点であいまいであった。
進化論と調和させようとした。
しかし、進化論と調和させる必要はまったくない。
進化論は、絶対にありえない、きわめて愚かな学説である。
こんなものと調和させる必要はまったくない。
創造論を唱えて学会で笑いものになるならば、なればいい。
そんな学会意味がない。
われわれは、聖書を前提とした科学を作り、ノンクリスチャンの科学と一線を画すべきだ。
われわれの思想価値体系は、ノンクリスチャンとまったく違うのだ。
だから、無理に向こうの判断に合わせる必要はない。
こちらの論理を通すべきだ。
そうするならば、いずれ向こうは自滅し、こちらが繁栄するので、こちらの学会のほうが権威を持つようになるだろう。
今までクリスチャンが妥協したために、クリスチャンの科学は成長しなかった。
われわれから始めよう。
まったく違う体系を作ろう。
(6)
今の政治状況を見てもわかるように、神を恐れる人がいなければ、制度がいくら完璧でも、まったく機能しなくなるのだ。
官僚が特権意識を持ち、やりたい放題をやり、政治家もその暴走を止めることができず、相手に巻き込まれるならば、何が法律だ、ということになる。
「一般啓示だけでやっていける」とさかんに言っていた反再建主義の人々はよく反省してほしい。
一般啓示だけでやっていくためには、聖霊の一般恩恵が強く作用しなければならない。
しかし、聖霊の一般恩恵は、聖霊の御心次第で停止されることがある。
そうしたら、人間は悪魔に変貌する。
日本のこれまでの状況は、神の一般恩恵でなんとか機能してきた。
しかし、それを恵みと考えない傲慢な人々への裁きとして、神は、一般恩恵を差し止め、その本来持っている堕落した獣性を発揮することをよしとされた。
上から下に至るまで、みんな己の利益のことしか考えられない。
後先のことを考えずに、利権に走る政治家。
修羅場である。
みんな地獄に行く。
地獄に行って永遠の刑罰を受ける。
われわれがいくら警告しても悔い改めないならば、地獄に行くしかない。
周りの人々があなたを面罵するようになったら注意したほうがいい。
最終警告が近づいているから。
その後は、ただひたすらに罪を犯して罪業を増し加えるのみ。神が放置されたのだ。
「悔い改めることができない」ことほど恐ろしい状態はない。
なぜならば、すでに見捨てられているから。
わが身を振り返ることができなくなっているならば、それは、神がその人を頑固にされたからだ。
この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。(使徒28・27)
2012年7月12日
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