一契約主義には、行為義認の教えが入り込む隙がある2


1.

二契約主義の場合、アダム契約とキリスト契約の対立は鮮明である。仏教用語を使うと、


(1)アダム契約=自力本願

(2)キリスト契約=他力本願

仏教以上に、この2つの違いは大きい。

アダム契約が終了した時点で、自力救済の道はすべて断たれた。

残された道は、徹底した他力本願である。

自分の努力の要素は一つも存在しない。

人間は、徹底してキリストの救いにすがるしか方法はない。

2.

一契約主義の場合、

(1)アダム契約=自力本願+他力本願

(2)キリスト契約=他力本願

であるから、2つの違いがそれほど大きくない。

そのため、(2)に自力本願が混入する隙がある。

つまり、キリスト契約においても、自力救済の要素が混入する恐れがある。

すなわち、

(1)アダム契約=自力本願+他力本願

(2)キリスト契約=他力本願+自力本願

となりやすい。

こうなるともはや、聖書的キリスト教とは言えなくなる。

本来「信仰のみ」の原則をかかげて始まったプロテスタントと、「信仰と行い」を主張してきたローマ・カトリックの区別がなくなる。

それゆえ、一契約主義のフェデラル・ヴィジョンは、ローマ・カトリックへの回帰なのである。

それは「逆宗教改革(De-reformation)」である。

私は、フェデラル・ヴィジョンの背後に、宗教改革の無力化の霊がいると思う。

 

 

2017年4月20日



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