精神病や犯罪の問題の根源は契約である


(1)
グアムの通り魔事件で犯人が「あいつが俺にやらせた」と口走ったらしい。

明らかに憑依だ。

人間の肉体はもともと、神の霊が宿る神殿として作られている。

神と契約を結んでいる間は神はそこに住まれる。

しかし、神との契約が終了すると、神はそこから出ていかれる。

エデンの園において、アダムは罪を犯したので、神の霊が去った。

神はキリストによる回復の道を示された。

人間は、キリストを信じるときに、契約が回復し、神が戻って来られる。

そして、聖霊がクリスチャンの体の中に住まれる。

クリスチャンは、聖霊の宮であり、世界の中心になる。

人間は、堕落したので、生まれながらの状態は、「壊れた神殿」である。

神が住まわれない神殿。

アダムがサタンの指示に従ったのでサタンの神殿となった。

神の抑制の恵みが働いている間は、それほどひどい悪霊は入らない。

しかし、神の特別の許可がある場合に、ひどい霊が入る。

そして、通り魔殺人などを行う。

われわれクリスチャンも構造的には、神殿であるから、神の霊だけではなく、悪霊が侵入する可能性がある。

ペテロには「誘惑の霊」が入った。

イエスはペテロに向かって「下がれ、サタン!」と一喝された。


その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ18・21-23)

イエスが神の御業に進もうと決意されたときに、袖を引っ張った。

もちろん、悪意はない。

人間的な心配をしたのだ。

神の世界と人間の世界は違う。

クリスチャンが献身をしようとすると、必ず「人間的心配」をする人が現れる。

両者は、全然別の世界を見ているのだ。

献身者になろうとする人は、飛行機に乗っていて雲の上にいて晴れ間の世界を見ている。

引き止める人は、雲の下にいて、風雨の中にいる。

イエスが見ている世界とペテロが見ている世界はまったく違っていた。

だから、神の世界を見ている人に対して、人間の世界しか見れない人は忠告できない。

それは誘惑になる。

悪霊は、「もっともらしいこと」や「常識」で攻撃する。

「もうこんな年齢なのだから。今頃になって献身?無謀すぎる。」とか。

「御心、御心といっても、支持者がこれしかいないのなら、どうしても神の支持を得られているとは思えない」とか。

サタンは、その人が弱い領域の道具を使って引き止めようとする。

日本人の場合は、「周りの目」である。

周りはどう判断するか、が気になる。

クリスチャンは、違う世界に生きている。

だから、神からの直接の指示で動かなければならない。

人間の評価などまったく関係ない。

世の中で何が受け入れられるかとかまったく関係ない。

イエスが十字架につくことなど当時誰も考えていなかった。

ペテロは、イエスがこれからメシアとしてイスラエルを回復し、ローマの支配を覆し、世界に王として君臨してくれると期待していた。

それが「十字架にかかって死ぬ」と予告されたのだから、自分の理想像が崩れたわけだ。

自分の理想像に合わせて神の姿を変えようとすること。

これを偶像の製作という。

仏像とか神の像の決定的な問題点は、「崇拝対象をコントロールすること。自分が受け入れやすい姿に作り変えること」にある。

ペテロは、このような操作を行った。

自分の子供が自分の人生の延長としか見れない親は隠れ偶像礼拝者である。

自分の思い通りの人間にしたがるから、一家心中などが起きる。

子供は神から委ねられている。

われわれが規制できるのは、「契約を守る」ように訓練することである。

自分の我欲を捨てて神に同調することができなければ、悪霊に入られて、周りの人々を苦しめるわがまま人間になる。

ペテロはキリストに対して「御心のとおりになりますように」と言えばよかった。

「そんなあなたは嫌いです」みたいなことを言ったので「サタン」呼ばわりされた。

(2)
昨日散歩しているときに、「人間が神殿として創造されたことがわからないから精神病や犯罪の問題が解決できないのだ」と思ったとたん、「見破られたか」との声を感じた。

神殿の中に住む霊の問題を薬でなんとかしても無駄だ。

もちろん、神経の興奮を抑制することはできるだろうが、根本の治療にならない。

根本治療は、契約を変えることである。

悪魔との契約を切って、神と契約を結ぶこと。

そして、神の霊に支配していただくこと。

酒に酔うことは、一種の礼拝である。

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5・18)

神の契約にいる人間にとって正常な状態は、神の霊が神殿に満ちていることだ。

そして、われわれの心や思いが完全に御霊に支配されていること。

御霊が考えることが完全に勝利し、肉の思いが消されていること。

酒に酔った状態は、御霊の完全支配がない。

酒というものによって振り回されている状態。

だから、隙をついて悪霊が入り、放蕩をさせる。

神の契約にふさわしい者として、常に御霊にコントロールされるようになろう。

 

 

2013年2月15日



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