北朝人脈は南朝天皇から皇位簒奪するためにイルミナティを利用したのか
皇位簒奪を狙った足利義満が南北朝の統一を実現した。
1392年(元中9年/明徳3年)には南朝勢力が全国的に衰微したため義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、持明院統と大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)や諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とする事(実際には国衙領はわずかしかなかった)などの和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、後亀山が保持していた三種の神器を北朝の後小松天皇に接収させて南朝が解消される形での南北朝合一を実現し58年にわたる朝廷の分裂を終結させる(明徳の和約)。(Wikipedia――足利義満)
さらに旧大日本帝国海軍最高の実力者で、絶大な権勢を誇っていた伏見宮博恭王元帥が【統帥権干犯】主張に同調して、1932年、軍令部長に就任して海軍の人事権を一手に掌握するや、対米英不戦を主張する条約派海軍将官の徹底的追放を行った。
その後、艦隊派といわれた国際情勢音痴の最高指導者たちが支配した旧大日本帝国海軍は、太平洋における覇権の確立を目的に、米国を仮想敵国として戦争準備に狂奔し、ついには対米開戦を決意して日本を破滅させた。
1930年、艦隊派の海軍軍令部が唱えだした【統帥権干犯】主張という【邪剣】が【立憲君主制法治国家・日本】を刺し殺し、ついには日本を破滅させたのである。
旧大日本帝国海軍の最高の実力者といわれ、人事を壟断し、対米英開戦を主導した伏見宮博恭王元帥の指導者責任はきびしく非難されなければならない。
http://www.page.sannet.ne.jp/mhvmhv/ShowaWar.html
2014年11月10日
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