<Q>
教会で牧師を「先生」と呼ぶべきではないのではないでしょうか。聖書にこうあります。
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。 (マタイ23・8-10)
<A>
誤解していただきたくないのは、私は、先生と呼ばれることをとりわけ求めているということではありません。
ただ、「自分のめがねにかなわない限り先生と呼びません」という傲慢な人が多いので、そういうことならば、別にその人に先生と呼ばれたくないですし、自分が書いたものも読んでほしくないです、と考えています。
この世界は、ギブ・アンド・テイクで成立しており、それは人間対人間だけではなく、神対人間にもあります。
その場合に、僕から情報を取って「ふむふむ」と利益を受けながら「先生と呼びたくありません」というのは、むしが良すぎるのではないか、ということです。
僕のことを「先生と呼びたくありません」と誰かが言うならば、じゃあ、「このサイトのアクセスを禁止しますから、環境変数のデータをよこしてください」といいます。
これは、このサイトに書いてあることを勝手に引用して、罵倒するすべての人に言いたいです。
「あなたたちに呼んでもらう義務はこちらにはないから読まないでください。お願いします。」
それから、日本の文化において、先達に対して先生という言い方はするので、特別教会において禁止すべきことではないと思います。
イエスが「先生と呼ぶな」といわれたのは「人間を神に並ぶ権威とすべきではない」ということを述べたものです。
本質を理解すれば先生という呼称を使用してよいのは当然です。
もしあの箇所を文字通り適用しなければならないとすれば、父親のことを「お父さん」とも呼べなくなります。
原則は一貫して使用できなければなりません。
もし牧師を「先生」と呼べないなら、自分の父親を「お父さん」とも呼んではならないと一貫して適用しなければならない。
こんなのは字義拘泥主義の愚かな教えです。