日本は一神教の国だった3


日本人が日本の宗教を多神教と誤解する一つの理由は「神」という言葉のあいまいさである。

上代の日本人は人間をも「神」と呼んでおり、神話においても人間が神と呼ばれているが、しかし実は、超越者の神とは区別していた。

平田篤胤の子鉄胤に師事し、白川家学館で学んだ国学者松山高吉は『神道起源』(明治26年)で

「上古の歴史をひもとけば、その大半は『神』の字でうめられているが、上代の人はその区別をよく知っていたから、惑うことはなかった。崇拝する所の神は、天地の主宰者なる造化の神に限っていた」

と述べた。(前掲書電子版72ページより引用)

このような人間を「神」と呼ぶ言い方は、聖書でも行われている。

つまり、聖書でも、人間が神と呼ばれている。


「わたしは言った。『おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。・・・』」(詩篇82・6)

「主はモーセに仰せられた。『見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。・・・』」(出エジプト記7・1)

イエスは、このような用法を肯定しておられる。

イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、おまえたちは神々である』と書いてはいないか。
もし、神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、
『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。(ヨハネ10・34-36)

つまり、「神のことばを受けた人々を、神々と呼」ぶのは正しいと。

しかし、聖書では、もちろん、礼拝の対象は三位一体の神に限定されている。

ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。
するとペテロは彼を起こして、「お立ちなさい。私もひとりの人間です」と言った。(使徒の働き10・25-26)

パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。
そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。
すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。
これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、
言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。(使徒の働き14・11-15)

このように、古代の日本人の「神」の用法は、実は聖書的であり、人間を祭るようになったのは、後代になってからであるとわかる。

日本の本来の神道は、多神教ではなく、唯一神教であったと理解すべきである。

 

 

2016年4月18日



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