1.
聖書的クリスチャンのことを「まじめな人々」と称するかもしれない。
私は自分のことを「まじめ」と言われると、ちょっと違うかなと思う。
聖書的に言えば、契約の民が律法を破らないように努力するのは、まじめだからというより、「こっちのほうが賢いから」である。
万引きをして儲かったつもりでいるのは、愚か者の証拠である。
罪を犯すと、必ず罪の奴隷になる。
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。(ヨハネ8・34)
「若いうちだから」みたいな甘い考えで、罪を犯すと、それが習い性になって、万引きが性格の一部となり、いつどこで自分が手が出るかわからなくなる。
いずれ必ず捕まるだろう。
警察で取り調べを受け、処罰され、世間の評判が定着すれば、自分がそれまで万引きで稼いだ額をはるかに超える不利益を被る。
つまり、神の法を犯すことは、自分にとって損なのである。
だから、賢い人は、そのような道を選ばない。
子供は愚かなので、そういう道理がわからない。
親は、子供のうちにいろんな悪い習慣が身につかないように、環境を整える責任がある。
2.
再建主義を信じない人々は、「なぜ神の法など研究し、それに縛られなければならないんだ」とこちらを非難する。
答えは、「得だから」「楽しいから」。
嘘偽りを信じて生きるより、真実を探して信じるほうが幸せである。
嘘や偽りを信じてそれを吹聴するよりも、真実を信じて語ることのほうがすがすがしいし、楽しい。
もちろん悪魔側からの迫害がある。
しかし、迫害による損害よりも、真実を知ることのほうがはるかに精神的に得である。
真実を知って、高い所からものごとを俯瞰できるようになれば自信もつく。
数学で高得点を取れる人は、題意を見抜くのに素早い。
達人になれば、問題を見た瞬間に「あ、あの公式を使えるか試す問題だな」とわかる。
入学試験は、頭のよい人を振り分けるためにあるのではない。
どれだけたくさん問題を解き、どれだけ解答の技術を身に着けているか、を知るためにある。
自動車免許の学科試験に合格するコツは、問題集を買ってきてたくさん問題を解くことである。
つまり、試験とはどのようなものであれ、「出題する人々の世界で通用している流儀をマスターすること」である。
過去問を解かないで、90点以上とれる人は天才である。
聖書の世界でも、同じ。
聖書の知識がない状態よりもある状態のほうが、自信がつく。
ある人は、幽霊を怖がっていた。金縛りに苦しんでいた。
しかし、聖書を学んで、「それは悪霊が、こちらを脅かして、しばりつけ、奴隷にしようとしているから」とわかり、さらに「イエス・キリストによってクリスチャンはそれらの悪霊に勝つことができる」と知ってから、完全に解放された。
無知な状態では、自信がなく、おどおどしている。
そのようなびくびくしている状態では、悪霊には勝てない。
勝てるには、信仰を強くするしかない。
信仰を強くするには、聖書の教えを学んで実践することである。
イエス・キリストの絶対的主権、絶対的な力を信じることができれば、一回の祈りで悪霊のこけおどかしを封じ込めることができる。
真理を知らず、偽りを好んでいる限り、悪霊からの攻撃は続く。
彼らがやっていることは「弱い者いじめ」なのである。
くだらないことに意識を分散させ、人生を台無しにしようとしている。
真理を学ぶことによって自信が生まれ、自信が信仰の力を引き出す。
クリスチャンに与えられた巨大な力を有効に活用することができるようになる。
3.
イエス・キリストが十字架にかかり、すべての法を守り抜かれたことによって、世界の相続権を手に入れられた。
そして、その権利にクリスチャンも与ることができる。
だから、この世界の実質的な所有者、主権者は、クリスチャンである。
紀元70年に、悪魔は世界の所有者の座を追われた。
それ以降、悪魔の作戦は「はったり」である。
自分を大きく見せ、「世界の主権者はおれだ」と吹き込むことに集中してきた。
実際は「凱旋の行列に加えられ、さらし者になっている捕虜」にすぎないのに。
神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(コロサイ2・15)
聖書の知識が増えれば、この世界の実情が見えてくる。
そうすれば、悪魔におびえることもない。
脅かされても「おまえは強そうにしているが、捕虜にすぎないではないか」と一喝できる。
悪魔がおいしいご馳走を提供し、自分の陣営に誘っても騙されない。
イルミナティやフリーメイソンに加入している人々は、騙され、「悪魔のほうが強い」と誤解している人々である。
悪魔と契約を結んで有名な歌手になっても、最後のどこに引っ張られるか。
ロックミュージシャンに変死が多いのは周知の事実である。
聖書の知識こそが、本当の「利益」である。
聖書を深く広く学べば学ぶほど、安全に歩むことができ、最終的に利益を得られる。