誰が救われるかは神の予定によって永遠の昔に決定されている


誤解があるようだが、聖霊の働きは、人間の能力と無関係である。

「日本人にキリスト教が広まらないのは、キリスト教の教義が血なまぐさいからだ」という新興宗教がある。

人の罪は、血の贖いを要求する性質のものなので、血なまぐさいのは避けられない。

キリスト教が広まるかどうかは、向き、不向きの問題ではない。

純粋に「選び」である。

神が選ばれた人は確実に救われる。

神が救おうとされた人は、どんなに逃げ回っても救われる。

逆に神が選ばれていない人は「救われることを望まない」。

救いに予定されていない人は、われわれがどんなに熱心に伝道しても、「救われたいと思わない」。

要するに、救いに関しては、「選ばれているか選ばれていないか」だけの問題である。

だから、福音が血なまぐさいかどうかは関係ない。

キリスト教の内容がいかに人を躓かせるものであったとしても、予定されている人は救いを受け入れる。

予定されていない人は受け入れない。

「予定されている人は必ず救われるのであれば、伝える必要もないではないか」という人がいるかもしれない。


しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。(ローマ10・14)

つまり、「宣べ伝える」→「聞く」→「信じる」→「呼び求める」という因果関係がある。

「宣べ伝える」ことがなければ、「呼び求める」こともない。

イエス・キリストの救いを伝える人がいなければ、救われない。

宣教は救いにとって不可欠である。

ビリー・グラハムは「イエスの御名を聞いたことがないが神の民となっている人がいる」というが、嘘である。

キリストを愛し、もしくは、キリストを知っているすべての人は、それに気づいているかいないかに関わらず、キリストの御体の構成員です。…
彼らはイエスの御名を知らないかもしれない。…
私は、彼らが救われており、天において我々とともに住むことになると信じています。
https://www.youtube.com/watch?v=yTMRgc4yB0w

「キリストの御体の構成員」つまり「契約の民」になるには、信仰が不可欠である。

しかし、ビリー・グラハムはここで「イエスの御名を知らな」くても「救われ」ると述べている。

「聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。」とのパウロの言葉と矛盾する。

イエスに関する知識は、信仰の前提である。

「イエスの御名を知らなくても救われる」というのは、もはやキリスト教ではなく、別の宗教である。

だから、ビリー・グラハムは異端である。

神が予定されている人がいれば、神は必ずそこへ伝道者を派遣される。

そして必ず知識を伝える。

だから、予定の中には伝道者の派遣も含まれている。

すべては神の計画に基づいて起きている。

神の計画以外で起きることは何一つない。

すべては予定されている。

神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9・15-16)

神があわれまれる者は救われて、あわれまれない者は救われない。

人間の願いや努力はまったく関係ない。

絶対的な神の主権のもとで歴史は進行している。

人間は、それぞれ神に与えられた役割を果たすために召された役者である。

神の時が来れば、いかに日本人が福音を嫌っていようとも、それを受け入れるだろう。

 

 

2014年5月19日



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