民族区別の罪悪視は神の国破壊が目的である


「黒人は足が速い。」

これは、差別ではない。

「ロシア水兵は風呂を使用するルールを守らない。」

これも、差別ではない。

小樽の銭湯が、ロシア人の入場を拒否したのも差別ではない。

ルールを守らない外国人を許すことによって、自分の経営する銭湯に日本人が集まらなくなれば、経営できなくなるので、制限するのは倫理的に問題ではない。

保険会社などはこういう判断を経験から導きだし、ある特定民族に保険の加入を断る。これもその特定民族との間にトラブルが頻発し、自社の利益が失われた経緯があるから。

なにも人種や民族で差別しようなんてどの企業も考えていない。

なぜならば、お客さんが増えればそれだけ収益が増すから。

要するに、経営者側からすれば、ある人々を店に入れるのはリスクであり、コスト(費用)。それに対してリターンが多いか少ないか、それともマイナスかで判断する。

費用対効果が多ければいい客であり、マイナスであれば悪い客。

こういう判断まで否定するのが、ポリティカル・コレクトネスであり、イルミナティの罠。

レイシストなる言葉は、世界から「壁」「区別」を消滅させて、ごった煮の世界を作ろうとするグローバリストの用語である。

聖書では、民族による区別を行う。

神は、民族の倫理的レベルに応じて差を設けられた。

結婚が許された民族とそうではない民族。

許された民族はそれほど堕落していない。

許されなかった民族は堕落しており、結婚を通じて偶像礼拝が入る恐れがあった。

事実、イスラエルが南北に分裂するきっかけとなったのは、ソロモン王が異民族と結婚してそこから偶像礼拝が侵入したから。

カナン人はあまりにも堕落していたため、結婚してはならなかった。

結婚とは一体化である。

堕落した民族の人と結婚すると、その堕落が染る可能性が高い。

もちろん、人による。

今日、新約時代の経綸において、民族による区別はない。

しかし、信仰によって判断することが求められる。

それは、「この人と結婚して、共通の目標である神の国建設が進展するか否か」で判断すべき。

配偶者が神の国建設の足を引っ張る恐れがあるならば、結婚すべきではない。

ともに神の国建設に向かうことができれば、自分の人生において実を結ぶ力は格段に大きくなる。

産まれた子供もいっしょになって、家族全員で強い力を発揮する。

たとえば、家族経営のビジネスが発展し、大きな会社になれば、それを通じて神の国は大きく発展する。

もしホンダやパナソニック、ソニーのような有名企業がクリスチャン企業であったら、どれだけ大きな武器になっただろうか。

世界を神の国と変えるための大きな戦力になるだろう。

神の御心は、結婚と家庭建設を通じて、地上に神の国が発展することである。

そのためには、まず、「区別」を行わねばならない。

神の創造は、区別から始まった。

光と闇を「分け」、陸と海を「分け」、陸とエデンを「分け」、エデンと園を「分け」られた。

イルミナティのポリティカル・コレクトネスは、この逆行である。

クリスチャンとノンクリスチャンの区別すらも罪悪にしようとしている。

このように「レイシスト」を悪とするような今の社会風潮は、神の国の破壊を目指すイルミナティの陰謀によって生み出されたことを知らなければならない。

 

 

2013年12月21日



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