成長したクリスチャンは神との間に自己完結した世界を築きあげている
主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。(エレミヤ17・5)
1.
最近「○○させていただく」という言い方がはやっているが、人に媚びている印象を受ける。
「拝見する」という言葉も、話相手を敬うための謙譲語であるはずが、いつのまにか丁寧語の扱いになっている。
テレビで司会者が「新聞記事を拝見したんですが・・・」と言った。
普通、「拝見する」は、話し相手に対して「御著書を拝見し大変感銘を受けました」というように用いる。
このような言葉使いに見られるのは「尊敬の念」ではなく「人への恐れ」である。
「人から嫌われたくない」という気持ちである。
日本人が内向き、臆病になって、冒険心を失っていることの証左に思える。
神は、人間に信頼し、神から心が離れる者を呪われる。
クリスチャンは、人に裏切られてもショックを受けない。
なぜならば「もともと人を信じてないから」。
クリスチャンは、「神との間で自己完結」している。
必要があれば、神に求める。
困難に直面したら神が救ってくださる。
孤独に陥っても、神によってなぐさめられる。
「えー、でも人の助けは必要でしょう」というかもしれない。
もちろん、人の手を借りなければわれわれは生きていけない。
しかし、その「人の手」は「神によって送られる人の手」なのである。
たとえば、お金がない。
そのとき、クリスチャンは人にすり寄って無心しない。
まず神に向かって祈る。
「今、必要があります。お金を与えてください」と。
神は、必要なときに必要な額だけ与えてくださる。
神は人を使わしてお金を調達してくださる。
モーセは問題が起きると真っ先に会見の天幕に行き、御座の前に跪いた。
問題に直に向き合うのではなく、神に向かった。
そして、御言葉を待った。
2.
クリスチャンは「私には、あの人がどうしても必要です。あの人がいなくなったら生きていけない」と思わない。
子供に対して「我が家の名誉(経済)はおまえにかかっている」とも要求しない。
人間に対する依存は、相手に対する「隠然たる支配」である。
甘える人は、相手を支配しようとしている。
クリスチャンは成長すればするほど、神との間に自己完結した世界を築きあげ、次第に人を必要としなくなる。
むしろ、人を助ける側に回る。
愛とは「ハイ・サポート、ロー・コントロール」である。
他人を大いに支援し、少なく支配する。
教育におけるコントロールは、子弟に対する訓練として行われるもので、支配ではない。
神に対する信頼が強くなればなるほど、他人に対する依存や支配が減って、逆に他人を支援するようになる。
2018年6月22日
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