関裕二氏の『消された王権・物部氏の謎』(PHP、Kindle版)は興味深い本であるが、キリスト教について間違った意見が散見されるので指摘させていただく。
西洋キリスト教の世界観からいえば、万物に精霊が宿り、いたるところに神が存在するという多神教は、未発達で野蛮な宗教観ということになる。(No.854)
聖書の神は、超越神であると同時に内在神であり、神は天におられるだけではなく、あらゆる場所に普遍的に存在される。
私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。(詩篇139・7-10)
神は御霊において遍在される。
それは、キリスト教は多神教を克服することによって成立したという歴史をもっているからであり、多神教から一神教へという流れこそが文明社会の根幹という発想かおるからである(ちなみに日本人は、典型的な多神教の世界に身を置いている)。
キリスト教は多神教を克服することによって成立したのではなく、「多神教から救われる」過程で成立した。
信仰の祖であるアブラハムは、偶像礼拝の堕落した町ウルから導きによって出て、カナンに向かった。
「日本人は、典型的な多神教の世界に身を置いている」
多神教を本気で信じて生きることのできる人は一人もいない。いかに制度的な多神教を信じていても「統一したルール」は必要不可欠だからである。
多神教的世界観では、「統一した法則を求める」自然科学は成立しない。
自然科学は「あらゆる時間とあらゆる空間において通用する法則の発見」を目的とする。
時間と空間によって異なる法則が適用できる多神教をベースにすると、この科学的研究に正当性を与えることはできない。
キリスト教のもとにおいてのみ近代科学が発展したのには理由がある。
「実験的手法は、人間の予想をはるかに越える成功を収めたが、その手法を生み出した信念は、キリスト教の神の性質から何がしかの恩恵を受けている。信仰とはほとんど無縁であると言われている科学が、『宇宙は合理的に解釈できる』とする信仰に由来し、今日の科学がこの前提によって支えられているということは、確かに、歴史の奇妙なパラドクスの一つである。」(Loren Eisely, Darwin's Century (Garden City, New York: Doubleday Anchor, [1958] 1961), p. 62. cited by Gary North 'Dominion Covenant'(Dominion Press), p.125)
多神教をベースにすると、法治国家は成立しない。
時間と空間を問わずに通用する普遍的な法を主張できない。
ではなぜ日本人は法を守る国民なのだろうか。
それは、日本人が本当は多神教を信じていなからだ。
都合に合わせて、あるときは一神教、あるときは多神教と使い分けを行ってきた。
外国人が行うようなえげつない犯罪に手を染めないのは、日本人が「時間と空間を超えた普遍的な法がある」と本能的に知っているからである。
「お天道様が見ている」という言葉が戒めとして通用するのは、唯一神の信仰が潜在的に日本人にあるからである。
一神教は唯一の神をいただき、絶対の真理をもち合わせている。したがって、他の宗教を容認することはない。容認しないどころか、一神教は、他の宗教を徹底的に忌み嫌い、時に潰そうとする。キリスト教とイスラム教世界の長い闘争の歴史がこれである。
人間は、「統一的な首尾一貫した世界観」を持たずに生きることはできない。それは、宗教が一神教か多神教かを問わない。
「寛容な宗教」は幻想である。
ヒューマニズムがなぜ宗教に寛容なのか。
その宗教がヒューマニズムという宗教を脅かさないからである。
ポリティカル・コレクトネスは、ヒューマニズムの徹底化した支配を求める運動であり、キリスト教に対して不寛容である。
キリスト教が社会的に圧倒的な影響力を持ち始めると、ヒューマニズムは弾圧に向かうだろう。
実際、アメリカでヒューマニストたちは、教室から十戒の紙を取り除き、祈りによって授業を開始することをやめさせた。
今ではクリスマスを祝うことを禁じ、西暦の紀元前(Before Christキリスト以前)と紀元後(Anno Domini主の年)を「キリストと無関係な呼び方」であるBCE(Before Common Era共通紀元前)とCE(Common Era共通紀元)に変えようとしている。
これに対し、多神教は「その他の神」が「いないはずはない」のだから、多くの宗教観を鷹揚に受け止めるのである。日本人がいろいろな宗教行事を日常に取り込んでいるのはこのためだ。
多神教が不寛容であるのは、ローマのクリスチャンに対する多神教徒のローマ皇帝による迫害を見ればよい。
これを一神教世界から見れば「無節操」で、「不可解」ということになるのだろう。しかし、ひとつ弁明を許されるならば、多神教には、あらゆるものと「共存しよう」という「知恵」が隠されているのである。
多神教であっても、自らの体制を他の宗教が侵害するようになれば、抵抗する。
多元主義を旨とする今の政府でも、クーデターを試みたオウム真理教を許さなかった。
ある宗教が暴力によって政権を倒そうと試みるならば、何度でも政府は権力を行使してそれを排除しようとするだろう。
もう一度言うが「宗教的寛容」は幻想である。
日本が鎖国政策を採ったのは、ローマ・カトリックなる侵略者を排除するためであった。
ところで、絶対の神をいただく一神教は、反対概念として、絶対の悪を創造した。これが悪魔であり、多くの場合、「魔女」という形で具現化されたのである。
なぜ悪魔が女性かというと、男性の神が男性のキリストを生んだと教えるキリスト教にとって、女性は「淫乱」で「下等」な生物だと考えたからである。アダム(♂)を誘惑し堕落させたイブ(♀)という話が、この思想を象徴的に表わしている。
信じられない話かもしれないが、ウーマンリブの活動が西洋で勃興したのは、キリスト教の女性蔑視の裏返しなのである。
聖書において、女性は「淫乱」で「下等」な生物だなどと記している箇所はない。
男性と女性は存在論的に同等であり、命の値は同じである。
契約的・法的に、社会秩序を維持するために序列がつけられている。
「女性は男性の助け手として創造された」と教えられている。
社長の命と社員の命は同等に尊いが、会社において序列があるように、男女の間にも序列がある。
男女は互いに互いの欠けたところを補い合う関係にある。
女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。(1コリント11・12)
タルムードユダヤ人を起源とするウーマンリブ運動は、「キリスト教の女性蔑視の裏返し」ではなく、「神の創造秩序の破壊」を目的としている。