日本は恵みの契約の国である2


契約において「祝福と呪い」は不可欠の要素である。

ただし、

(1)わざの契約

(2)恵みの契約

において、それぞれ「祝福と呪い」は異なる意味がある。


(1)わざの契約

この契約は、アダムと結ばれた。

そして、アダムの子孫として生まれるすべての人は生まれながらにこの契約を神と結んでいる。

この契約が怖いところは、失敗が許されないところだ。

贖い主がいないので、失敗がすべて自分の責任となる。

罪を犯すと、永遠の滅びに直結する。

十戒の2枚の板は、原子炉に格納していない燃料棒のようなものである。

人間が直に接すると死ぬ。

わざの契約の中にいる人々(アダム族)は、すべてこのむき出しの燃料棒にさらされている。

(2)恵みの契約

人間が堕落したため、神は、新しい契約を人間と結んでくださった。

イエス・キリストが人間の代わりに、すべての戒めを守り、成就し、しかも、その違反の責任も取ってくださった。

このイエス・キリストの御業を土台として結ばれる契約、これが、恵みの契約である。

この契約に入るには、信仰が必要である。

イエス・キリストを自分の救い主として受け入れることが条件となる。

受け入れた人は、アダム族を抜け出して、キリスト族に入る。

キリスト族は、キリストを契約の主として、すべて律法を守り、自分が犯したすべての罪の代償を払ったとみなされる。

なぜならば、契約とは一体化を意味するから。

われわれとキリストとは統一体、運命共同体である。

恵みの契約によってわれわれは永遠の生命を受け取ることができる。

恵みの契約の中にいる人々にとって、十戒の2枚の板は、危険ではない。なぜならば、契約の箱の中に収められているから。

契約の箱とは、イエス・キリストの象徴である。

イエス・キリストが十戒を守ってくださったので、われわれは(永遠の命を得るために)守る責任から解放されている。

さて、(1)と(2)のいずれにも「祝福と呪い」がある。

契約を守れば祝福が、破れば呪いがある。

(1)の場合は、違反は、肉体と魂の死をもたらす。つまり、永遠の生命を失って地獄に行く。

(2)の場合は、違反は、永遠の生命を失って地獄に行くことはない。

なぜならば、イエス・キリストが身代わりに呪いを被ってくださったから。

ただし、条件がある。それは「悔い改める意思があれば」という条件である。

恵みの契約に留まり続けたいならば、「悔い改め」をして、神をたえず主として崇めなければならない。

戒めを破って反省しないならば、契約の中から追い出される。

それから、恵みの契約は、「イエス・キリストと契約の民による地上支配」を目的としているので、違反は、地上支配における遅滞もしくは停止、逆行を意味する。

神が拡大しようとされているのは、「義と愛の王国」であるから、義や愛の欠如した人には祝福は与えられない。

クリスチャンになって、祝福された生涯を送りたければ、戒めを守って、忠実な僕になる必要がある。

違反しても(悔い改めるならば)それによって地獄に行くわけではないが、祝福は奪われ、様々な分野において呪われる。

たとえば、何世代も貧困が続くとか、教勢が伸びないとか。。。

地上において裕福になり、力を増すためには、神の戒めを守り、自分勝手な掟に振り回されるのをやめなければならない。

以上のように、2つの契約における「祝福と呪い」を区別しなければならないのである。

 

 

2013年7月4日



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