世界の覇者になるには2
また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(黙示録3・14-21)
この箇所も契約の構造になっている。
1.超越と内在
「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。」
超越者の宣言である。
イエスは、「神に造られたものの根源」であられる。
イエスは、被造物の生みの親である。
神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。(箴言8・27-30)
被造物でイエスによらずに生まれたものはない。
イエスは、神の第2位格であり、受肉する前において、創造者であられた。
2.上下関係
「わたしは、あなたの行ないを知っている。」
イエスが主であり、クリスチャンは従者である。
クリスチャンは、イエスのもとで働く者である。
イエスは、クリスチャンの行ないを見ておられる。
われわれが何をするか一つ一つ評価される。
3.神の法
「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」
イエスは、神の法にしたがって、われわれの行動を評価される。
われわれが神の法にしたがって、熱心に行動しているか。
イエスはわれわれが熱心になることを望んでおられる。
4.賞罰
「このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」
イエスは、われわれの行動にしたがって賞罰をくだされる。
イエスは、空しい物、まがい物で満足せず、「火で精練された金」を買えと言われる。
火をつけると燃えてしまうような安っぽい物で満足してはならない。
神のみ言葉を学び、知恵を愛し、本当の富を手に入れろと。
そうすれば、ほんとうに「豊かな者となる」だろうと。
「あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい」。
つまり、空しい富によって得られた着物は、いくらそれを身に着けていても、われわれは依然として裸であるということ。
「白い衣」とは「キリストの聖めによって得られる聖さ」の象徴である。
アダムとエバは罪を犯す前には裸が正常な状態であった。何にもおおわれる必要がなかった。なぜならば、神の被造物として完全であったから。
しかし、罪を犯してからは、存在そのものが罪になってしまった。裸の状態は正常の状態ではなく、恥ずかしい状態となった。
われわれは、罪をおおわれる必要がある。
「キリストなんて必要ない!このままでOK!」というノンクリスチャンたちは、実は裸の恥をさらして生きている。
神の目において、ノンクリスチャンは恥をさらす存在である。
クリスチャンは、堕落後のアダムとエバのように「自分の存在は何かによって覆われる必要がある」と自覚している。
だから裸を恥とし、キリストという衣を着ている。
しかし、クリスチャンであっても、富の惑わしによって洗脳されると、「キリストなんていらない」と考えるようになる。
「そのままで何が悪い?」と。
聖書も読まず、礼拝も祈りも賛美も、御言葉の学びも不要に思えてくる。
このような状態はきわめて危険である。
「裸を自覚していないから」。
われわれは常にキリストから「白い衣」を買って着る必要があるのだ。
「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」
富の惑わしによって洗脳されると、自分が見えていると錯覚する。
洗脳されたカルトの人々を見給え。
自分は盲目ではないと誤解している。
現代の学校教育も一種の洗脳だ。
進化論などをまともに信じて人類が猿や猿人から進化したと考えている。
今の学問の基本はこのような「自然は進化して成立した」とする考えである。
それに盲目的に依存している。
だから、世界理解がすべてゆがんでいるのだ。
しかし、ゆがんでいることに気付かない。
自分が賢いと思っている。
だから、われわれはイエスから「目薬」を買わなければならない。
イエスにしたがって、聖書の啓示から学ぶ必要がある。
聖書啓示によらずに生きられると思ったら大間違いだ。
必ず盲目になり、致命的な穴に落ち込むだろう。
「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」
イエスに懲らしめられるのは「愛する者」だけである。
愛するがゆえに懲らしめられる。
だから、われわれは熱心になって悔い改め、それまでの行動を改めるべきだ。
5.継承
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」
「イエスとの食事」は聖餐式であり、契約の象徴的儀式である。
イエスと食事をともにすることは、イエスと同じ体の一部であるとの意味である。
契約とは有機体であり、それは人体にたとえられる。
われわれクリスチャンは互いに一つの体であり、それぞれが役割を与えられている。
目である者、口である者、頭脳である者、足である者など。
食事を通じて、われわれは同じものによって構成されていると分かる。
同じ食べ物が血液を通して等しく分配される。毒を飲めば体全体が麻痺する。
一か所が痛めば、体全体が苦しむ。
だから「いっしょに食事をする」とは、「契約の一員として認める」と同義である。
「戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、」
つまり、イエスは、われわれにチャレンジしておられる。
われわれが生ぬるい状態から、熱心な状態に変われるように、ドアをノックしておられる。
悔い改めて、その盲目で裸の状態から脱出するならば、われわれは契約の一員として認められる。
しかし、脱出しないなら、もはや契約から追い出される。
「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」
脱出する人は、「勝利した人」であり、それゆえ、イエスとともに「宇宙の王者」になる。
イエスは十字架の上でサタンに勝利され、世界をサタンから奪還された。
被造物の贖いを成し遂げ、それによって被造物をすべて聖めて、神のもとに取り返された。
その褒美として、父なる神はキリストを「ともに御座に着」かせられた。
それと同じように、われわれもイエスの王座に座ることができる。
契約の中にとどまるならば、われわれは勝利者になり、永遠の王になることができる。
以上、ラオデキヤの教会に対するイエスの勧告は、契約的構造になっており、それゆえ、契約的勧告であると分かる。
これを通じて、クリスチャンは、いかに契約にとどまり、勝利者、王権を得られるかを学ぶべきである。
2012年9月26日
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