心配と不信仰 by R・J・ラッシュドゥーニー


聖書は心配することを禁じている。われわれの主御自身が「心配は愚かであり、罪である」と言われる(マタイ6・25-34)。ペテロは「あなたのすべての思い煩いを神に放り投げなさい。神があなたのために心配してくださるから」(1ペテロ5・7)と述べた。

心配と信仰は調和しない。事実、それらは互いに矛盾している。心配は、不信仰のしるしである。

考えてみてほしい。神は心配することができない。神は天と地とその中のすべてのものの造り主である。すべてのものが彼によって作られ、すべてのものがその全能の御手と支配の下にある。さらに、ヤコブが宣言しているように「世の始まりから、神が創造されたすべてのものは神によって知られている」(使徒15・18)。原子一個ですら、神の支配と管理から逃れることはできない。

これは「神には心配すべきことは、何もない」ということを意味する。なぜならば、万物は神の完全な支配下にあり、神の目的を達成するからである。もし主がわれわれの主であるならば、ローマ8・28はわれわれにとって真実である。すなわち「そして、わたしたちは、すべてのことが神を愛する人たち、神の目的に従って召し出された人たちにとって益となるように共働することを知っている」と。もしわれわれに起こる最悪のことがらが主にあって利益となるべく起きているならば、われわれが敗北することはありえない。

これこそ、なぜ不安や心配が罪であるかの理由である。不安や心配は、主に対する不信を意味するだけではなく、「自らが神を演じ、己の計画に従って人生を動かそうとすること」をも意味する。その時われわれは、罪深いことに、自らの生活を手放して神の守りに委ねることを拒否する。

「生活について思い煩うな」(マタイ6・25)と言われ、「自分の命について心配したり、不安になったりするな」と言われる主は、われわれを信仰に招いているのである。主への信仰を拒む者が、どうして主のご配慮を期待できるだろうか。信仰を拒否し、執拗に心配し続ける者には、心配事が増える。ご自身を否定する者に対して、主は世話も導きもお与えにならない。神のご配慮か、それとも心配か、選択肢は2つしかない。

R. J. Rushdoony’s “A Word in Season: Daily Messages on the Faith for All of Life,” Volume 7.

This translation was made by the permission of Chalcedon.

 

 

2018年11月26日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net