聖句を取捨選択する個人や教団は偶像礼拝の罪を犯している2


「私たちはイエスを神であり、救い主であると拝んでいます」と言っても、聖書の中の特定の箇所を無視し、予定論を否定するような個人や教団がキリスト教であるか甚だ疑問。

聖書が教えるとおりの神を信じなければ、偶像礼拝者と批判されても仕方がない。

ある雑誌において、私が「江戸時代の人々に御言葉が伝わっておらず、それゆえ滅んだとしても、それは、神の責任ではなく、罪を犯した本人の責任である。」と言ったところ、ある牧師が「私はそんな神を認めません」と言った。

セカンド・チャンス肯定派の牧師は、聖書の神を信じているのではなく、「自分がこのようであってほしいと希望する神」つまり偶像を拝んでいる。

「福音を聞いたことのない人はハンディがある。だから、死後にそのチャンスを与えてあげたい」という気持ちは理解できる。

しかし、聖書にそれを肯定する文言がない以上、受け入れるわけにはいかない。

救いはあくまでも「救われる値のない者への特別な恵み」であって「当然与えられるべき恵み」ではない。

「当然与えられるべきだ」と考える人は、神を非難している。

つまり、自分が神になっている。

死刑廃止論者も同じである。

「いのちにはいのち」と命令される神を「そんな非情な!」と言って裁いている。

しまいには「これは旧約聖書の律法だからだ。新約聖書ではそんな教えはない」と、聖書にまで手を加える。

人間は誰でも大なり小なり偶像礼拝者であるが、聖書にしたがって自分を変えようとするか、それとも、自分の希望にしたがって聖書を変えようとするか、大きな違いがある。

前者は救われるが、後者は救われない。


また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(黙示録22・19)

 

 

2018年9月16日



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