区別や差別を禁止すると文化は死ぬ2


(1)
「不快な思いをする人」に配慮する場合は、それが「真実に基づいていない」とか「他人に危害を加える」場合だけ。

旭日旗は日本の象徴であり、何も悪いことをしていない。

無意味に他人の気持ちに配慮するのは、臆病者。

臆病は文化を殺す。大切なものとそうでないものを区別せよ。

(2)
昔のTVが面白かったと思えるのは、かなり実験的なことをしたから。

今は、制作サイドが臆病者で、時々刻々と変化する視聴率を気にして、大胆なことができない。

だから、動物とかグルメばかりになる。

視聴率を気にしないことによってかえって視聴率は上がる。

「自分の命を救おうとする者はそれを失う」

(3)
「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。」(ルカ12・51)

「分裂はことごとく悪だ」というのが、ポリティカル・コレクトネスとか、差別禁止の風潮の基本理念だ。

イエスが望んでおられるのは、「真理のために分裂や対立を」である。

もちろん、むやみに対立することがいいと言っているのではない。

きわめて重大な問題についてだけである。

きわめて重大な問題については、和合よりも対立が必要ということだ。

なぜならば、イエスは「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ5・9)と言われているから。

旭日旗の禁止のような日本の国の基本を脅かす問題について、「対立を避け、穏便に」というならば、それは、日本という国はどうでもいいと言っているのと同じである。

自分たちの生活を支える国家についていい加減な人は、その生活をもどうでもいいと考えている人であり、もう何がなんだかわからない人である。

こういう何がなんだかわからない人が今の一般の日本人であり、福音派のクリスチャンである。

クリスチャンは、「日本人など、大患難の中で死んでしまえばいい」みたいな発言すらする。

完全に、カルトである。

もう話にもならない。

まともな人は、国のあり方について考える。

すべての活動の基礎になる国の秩序、防衛、領土について考える。

これらの問題について「まあまあ、穏便に」などと言っているのは、売国奴であり、クリスチャンでも何でもない。

(4)
防衛について真剣に考えないクリスチャンは、「汝、殺すなかれ」の律法を破っている。

なぜならば、外国軍が侵入しても抵抗しないことによって、遵法的市民がむやみに殺害されるからだ。

間接的な殺人だ。

社会問題と聖書の倫理問題とは切り離せない。

社会問題において具体化されない聖書倫理って何だろう。

福音派は、間違った思想により、社会問題を避けるようになった。

そのため、個々のクリスチャンは、聖書から考えるのを止めた。

その代替として、彼らは社会問題を世俗の理論によって考え始めた。

だから、クリスチャンとはいえ、ノンクリスチャンとほとんど考えが変わらない。

たとえば、「私有財産の尊重は、エゴイズムだ」などと叫ぶ。

「共産社会こそ理想だ」とか。

だから、クリスチャンに共産主義者が多いのだ。

あの、南京大虐殺記念館を作った元社会党首田辺誠や、北朝鮮拉致を否定した土居たか子のような売国奴もクリスチャンを自称している。

聖書に立たないから国を尊重できず、そのため、イルミナティの国際主義にからめ捕られているのである。

クリスチャンは、聖書から社会問題を考えるべきだ。

 

 

2012年8月31日



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