大化の改新を境に多神教の国になった日本
物部・秦氏の三位一神教国であった日本は、大化の改新において藤原氏が実権を握った結果、表面上多神教の国になった。
”なぜ中臣氏は、かくも力を持ったのか。彼らが台頭してきたきっかけは、なんといっても645年の「大化の改新」である。この時「中大兄皇子(後の天智天皇)」と組んで、 「中臣鎌足」が蘇我入鹿を討ち、政治改革を実行。この功績によって、中臣鎌足は「藤原姓」を賜り、ここに日本の政治を動かす天下の名門が誕生する。
特に、藤原鎌足の息子「藤原不比等」は記紀編纂に深く関わり、律令政治の下、全国の神社に介入。記紀神話の神々を祀るように強行し、各地に伝わる古文献を没収してしまった。このため、藤原不比等以前と以後では、神道の教義は大きく変化。かつての唯一神信仰は裏神道へと封じられ、神社で八百万の神々が祀られるようになった。”(飛鳥昭雄・三神たける著『失われたイエスの12使徒八咫烏の謎』、学研、180−181ページ)
しかし、これは、日本の真の姿を隠すカモフラージュである。
天皇が天皇になるもっとも重要な儀式である大嘗祭を主催し、取り仕切っているのは、宮内庁でも伊勢神宮でもない。それは、京都の賀茂神社である。その中でももっとも重要なのは、下鴨神社である。
神道には、表と裏がある。
表は、中臣氏の伊勢神宮が中心。しかし、裏は、賀茂氏の下鴨神社が中心である。
日本は、裏を見ないとわからない。裏にこそ本質がある。
賀茂氏は、物部・秦氏の祭祀氏族である。
実際に、神道を支配しているのは賀茂氏。
つまり、日本の本質は三位一神教であり、キリスト教である。
2018年10月5日
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