ノンクリスチャンとの共通基盤は聖書である


(1)
私は捕鯨が正当な人間の権利であると主張する際に、「肉食は、神が人間に与えられた権利だから」と述べることにしている。

「私は神を信じていない」と返ってくるかもしれないが、聖書を基準として正当性を主張する。

なぜか。

聖書は「万人にとって」基準以外の何物でもないから。

ヴァン・ティル主義とはこのような立場である。

ヴァン・ティルは、ノンクリスチャンにとっても神の存在と神の絶対基準性は自明なので、ノンクリスチャンに対する会話においてそれを前提として話をせよと述べている。


第一に、聖書は「盲人に理を説き、語り、説教せよ」と命じている。なぜならば、神は、その御名において語り、理を説くならば、盲人の目を開けてくださるからだ。イエスは、死人ラザロに向かって「立ち上がって、墓から出て来い」と命令された。預言者は、谷の骨々に向かって語りかけると、それに肉がついた。このように、キリストにある神がわれわれを通じて理を説き、説教してくれるので、われわれの説明も説教も無駄にはならない。かつてわれわれが盲目だったころ、神はある人を通してわれわれに理を説いてくださった。それでわれわれは見えるようになったのだ。
(Van Til, Introduction to Systematic Theology, P&R, p.30)

われわれの伝道とは、「死人に対する語りかけ」である。

われわれがかつて死人であったように、生まれ変わっていない人々は、霊的死人であり、神の言葉を悟る力がない。

われわれが現在も肉において無能であるように、彼らも神にとって、御国にとって無能である。

われわれが、かろうじて神や御国のために働くことができるのは、聖霊が与えられているからだ。

聖霊がなければ、われわれは御言葉の価値が理解できない。

宣教の価値を理解できない。

神学校の価値を理解できない。

牧師や神学校の教師の価値を理解できない。

われわれの肉の部分は、アダムにおいて堕落している。

だから、真理を悟るには、復活するしかない。

われわれの肉に聖霊が住み着かれる以外にはない。

ノンクリスチャンを復活させるのは、「相手に合わせて聖書の前提を捨てることではない」。

相手が「私は神を信じていないから、聖書の基準で話されても」というかもしれないが、聖書の基準以外のものを基準とするならば、すでに「神を偽り者としている」わけだから、成功しない。

われわれとノンクリスチャンの間に「宗教的に無色透明、公明正大な共通の基盤」など存在しない。

「神の存在を前提としないで話し合いましょう」とクリスチャンが言ったとたんに「共通の基盤」ではなく、「ノンクリスチャンの基盤」に立った。

聖書がわれわれに教えているのは、もしわれわれとノンクリスチャンの間に共通の基盤があるとすれば、それは、「聖書」である。

神の言葉こそ唯一の基盤である。

なぜならば、ノンクリスチャンも神の被造物だから。

ノンクリスチャンは、自分で認識はしていないが、神の基準で裁かれている。

神はクリスチャン、ノンクリスチャン関係なく、聖書という基準によって裁かれる。

ノンクリスチャンでも、不道徳なことをすれば、裁かれる。

ノンクリスチャンがなぜ聖書を基準としないかというと、それは、罪があるから。自分の罪によって神の言葉を拒否しているから。

(2)
啓蒙主義、フリーメイソン、イルミナティが義務教育を通じて全世界の人々に広めたのは、「共通基盤は存在する」という神話である。

「宗教的に中立で、無色透明な基準がある。それこそが、公明正大な判断の基準だ。聖書なんかによって判断するのは、宗教的独善だ」という教えを広めたために、全世界は「中立教」の信者で埋め尽くされた。

政教分離とか中立教とか、ノンクリスチャンだけではなく、クリスチャンすらも、「無神論」を前提として思考するようになった。

「神の存在を前提としない。なぜならば、それは反証不可能だから」という科学思考の方法を受け入れている。

クリスチャンの科学とは、神存在を前提とし、聖書啓示を前提とするものでなければならない。

そして、その前提をノンクリスチャンにも示していかねばならない。

「いやあ、そんなことをすると宗教馬鹿って思われないでしょうか。いやしくも科学者ならばそんなことはできません」というなら、それはクリスチャンではない。

だから、クリスチャンがまともな科学者となりたいならば、ノンクリスチャンの科学の前提を受け入れてはならない。

(3)
ヴァン・ティル以前のキリスト教はこの「クリスチャンとノンクリスチャンの共通基盤」の問題についてあいまいだった。

だから、ローマ・カトリックのように、創造秩序ではなく「自然秩序」を土台として思考した。

価値判断の基準が神や神の言葉ではなく、「自然秩序」や「自然法」であった。

神すらも自然秩序の中で序列化された。

美の序列の中に組み込まれた。

「神は完全な美である」などと。

違う。

「神は美の基準だ」である。

「神は美しいか」は間違った問いかけである。

「神を美の基準とする」が正しい。

神を基準として扱わないのは、あたかも、神をオーディションに呼び出して歌ったり踊ったりさせることに等しい。

審査官は、人間である。

人間が、序列をつける。神―天使―人間―動物―昆虫―岩石…みたいに。

神を裁いているという点で、このような思想は決定的に間違っている。

神と神の言葉が序列をつけるのである。だから、序列の階段の中に神は入らない。

ヴァン・ティル以前のキリスト教は、この点があいまいだった。

だから、われわれは、ヴァン・ティルを経過しないキリスト教思想をことごとく排除しなければならない。

(3)
クリスチャンとノンクリスチャンが話し合う場合、どちらにとっても中立の共通基盤など存在しない。

ノンクリスチャンの共通基盤とは、「神は本当にそのように言われたのですか。違います。神は嘘をついています。こちらが正しい」と囁いたサタンの提供する基盤である。

だから、クリスチャンがノンクリスチャンの基盤に立つならば、そのときにサタンの誘惑に負けたエバと同じ状態になる。

クリスチャンは、神の言葉、聖書を唯一の基準として死守しなければならない。

そして、ノンクリスチャンをこちらの基盤に引き上げなければならない。

クリスチャンとノンクリスチャンの共通基盤は、聖書だけである。

 

 

2012年5月19日

 

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