(1)
称名は日本の仏教の特徴であるが、実は神道でも行われているようである。
神前で「弥栄(やさか)」と唱える。
次は「ひふみ祝詞」と呼ばれるものの一部だ。
「御三体の大神様 弥栄(やさか)ましませ 弥栄(いやさか)ましませ
天(あめ)之日月の大神様 弥栄ましませ 弥栄ましませ
地(くに)の日月の大神様 弥栄ましませ 弥栄ましませ」
http://plaza.rakuten.co.jp/kibi2525happy/7000/
弥栄とは、「その意味も万年に限らず、永劫(とこしえ)に栄えることを祈念、するもの」だという。
「弥栄(いやさか)」の言葉を三回唱え締めくくりました。 ちなみに弥栄とは、ますます栄えることを祈り、皆で叫び唱える言葉です。
http://nporunrun.com/archives/293
私は、この「弥栄」という言葉はもともと神の御名「ヤーウェ」であったと考えている。
昔契約の民が日本にやってきて、神前で神の御名を唱えていた。
「ヤーエー」と唱える言葉に漢字を当てはめて「弥栄」とし、それを「やさか」と読み替えたのだろう。
世界で唯一日本人に神の御名を唱える習慣が残った。
パレスチナのユダヤ人は、ヤーウェと読むであろう聖四文字YHWHを、御名を唱えることを恐れるあまり「アドナイ」と言い換え、もともとをどのように読むかわからなくなってしまった。
表のユダヤで消えたものが、裏のユダヤでは残っていた。
しかし、表のユダヤで称名が完全に消えたわけではない。
イエスが復活させられた。
イエスは、「エゴー・エイミ」と唱えられた。
これは「私は、存在する」という神の御名である。
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8・58)
この「わたしはいる」は「エゴー・エイミ」である。
ギリシャ語で、「エゴー」は「私は」、「エイミ」は「存在する」という意味である。
パリサイ人らがこのイエスの発言を冒涜とみなしたのは、そこに御名が含まれているからである。
つまり、イエスはご自身を神と宣言したと解釈したのだ。
事実、イエスは「エゴー・エイミ」ということによってご自身がモーセの前に現れた「わたしはある」という名の神と同一であると宣言されたのである。
神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」(出エジプト記3・14)
ヤーウェも、「存在」と関係のある言葉である。
ヤーウェのおおよその意味は、「彼は存在せしめる」もしくは「彼は創造する」である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Yahweh
まとめると、
1.「エゴー・エイミ」。(ヘブル語で「エフイェー」)
意味は、「わたしは存在する」。
2.「ヤーウェ」。
意味は、「彼は存在せしめる」。
つまり、これら聖書における主要な神の御名はどちらも「存在」と関係している。
神は、ご自身を存在の根源として啓示された。
イエスは、この御名を唱えることを回復された。
弟子たちは、「御名を唱える者」と呼ばれていた。
彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。(使徒9・14)
これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」(使徒9・21)
「あなたの御名を呼ぶ者」の原語の英語表記:
touV epikaloumenouV to onoma sou
http://www.greeknewtestament.com/B44C009.htm#V14
=あなたの名前を呼ぶ人々
epikaloumenouV < epikalew = 「呼びかける、呼ぶ」
初代教会の人々は御名を呼んでいた。
それゆえ、初代教会から日本にやってきた人々も御名を唱えていただろう。
神道において神の名が唱えられているのは、ここにルーツがあるのではないか。
(2)
神殿とは「神の御名の住まうところ」である。
エルサレムに御名を住まわせられた神は、この命令をあえて犯しエルサレムにあるこの神の宮を破壊しようとして手を出す王や民をみな、くつがえされますように。私ダリヨスは命令を下す。まちがいなくこれを守れ。(エズラ6・12)
あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行なうなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来ると。(ネヘミヤ1・9)
彼らはそこに住み、あなたのため、御名のために、そこに聖所を建てて言いました。(2歴代20・8)
だから、「神殿では、御名が呼び求められなくてはならない」(1列王8・43)。
新約時代において神殿とはクリスチャンの体である。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(1コリント6・19)
それゆえ、クリスチャンの体は、御名の住まいである。
だから、クリスチャンの体では、「御名が呼び求められなくてはならない」。
つまり、御名を唱えなければならない。
私は散歩のときに、祈りながら歩く。
荒川土手などを御名を唱えながら歩く。
1万歩を目標にしているから、約2時間、御名を唱える。
毎日、毎日2時間御名を唱えると、どういうことが起きるだろうか。
自分の声が変わるのである。
途中で、威厳のある低い声に変わる。
「御名によって悪霊を縛る」と祈るときにも、自分が言っているのではない、神が言っておられるとの感覚になる。
聖なる威厳を感じる。
そういう不思議な現象が起きる。
われわれの体は神殿であり、御名が住んでおられるので、御名を呼ぶときに、呼応して現れてくださるのではないか。
これを異端の思想と考えるだろうか。
聖書のどこにそれが書いてあるだろうか。
むしろ、私が御名の重要性を友人K氏から聞いたときに不思議なことが起きた。
話を聞いて部屋に戻ってしばらく静かにしていたら、地震も何もないのに、本棚の上に積んであったカルケドンの季刊誌『カルケドン・レポート』が一冊、パラっと落ちてきた。
それを見ると、ラッシュドゥーニーの「御名について」という論文が載っているではないか。
神は明らかに私にこのことを教えておられる、と理解した。
称名に伴う体験は、クリスチャンにとって絶対に必要なものである。
TWNTのオノマ(御名)の項目に、「聖書において、御名のあるところ、そこに神の実体もある」とある。
なんでもそうだが、真剣さ、執拗さがなければならない。
真に神を求めるならば、真剣に、執拗に、繰り返して御名を呼んでいただきたい。