神の国とは大衆運動ではない2
現在、各地で、本物の運動が始まっている。
千葉や苫小牧、仙台、東京、名古屋、新潟、神戸、砂川、登別、伊勢、三島などで本物のクリスチャンが、独自に活動されている。
これらの活動は、本当に神の国を築き上げる活動であり、永遠に残るものである。
この地上で神のために行ったことは、けっして無駄にならない。
神はその何百倍にもして必ず報いてくださるだろう。
いまや、世界は、ノンクリスチャンの破壊活動によって、危機に瀕しており、このままクリスチャンが手を引いていては、本当にだめになってしまう。
最近では、教会ひとつがまるまるポスト・ミレに変わることすらおきている。
これがどれだけ強烈な効果があるか想像できるだろうか。
われわれの視点と神のそれはまったく異なっている。
神は、どんなに少数の人であっても、必ずそれをパン種として用いてくださるのだ。
神の国とは、「パン種が粉全体を膨らませる」ようにして発展する。
発酵物質というのは、この御国の拡大を表現するために神が創造されたものである。
聖書において、パン種は、2つの意味で用いられている。
ひとつは、よいもの。すでに述べたように御国の象徴である。
もうひとつは、悪いもの。「パン種を除け」とある。
しかし、パン種そのものが悪い象徴ではない。
聖餐式において、なぜ発酵物であるパンとぶどう酒が用いられているかは、御国の象徴としてである。
善も悪も、どちらも発酵物質である。
どちらも、周りに影響を与えて、全体を変えてしまう。
だから、犯罪を放置してはならないのだ。
わずかな犯罪が社会全体をだめにする。
麻薬業者やポルノ業者は、全人口の5パーセントにも満たないだろう。
しかし、社会全体を堕落させる。
放置することによって、大きく堕落する。
それと同じように、神の国の福音を持っている人間は、大きな影響力を持つ。
たとえ5パーセントでも、全体がそれで変わる。
残念なことに、これまでの福音、つまり、ディスペンセーショナリズムの福音では、影響力はない。
なぜならば、「世は終わる」とするからだ。
終末論が悲観的であるならば、現実への作用はない。
自ら自分の影響力を放棄してきたのがこれまでの教会だ。
われわれは、妥協しない福音を携えることによって、数々の洗脳から人々を解放できるだろう。
そして、真理によって、日本を変えることができるだろう。
われわれ一人一人は、パン種であると同時に、神殿でもある。
神殿からは水が流れていた。
われわれは、生ける水の川を与える水源である。
人々は、それによって癒される。
世界を悪魔から奪還しよう。
それこそイエスが来られた目的である。
わたしが来たのは、悪魔の業を破壊するためである。
2011年1月23日
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