交わりの基礎など


1.

思った以上に民進が強いので驚いた。

自民の自爆テロのせいだろう。

TPPとか増税、舛添。都知事候補に韓国寄りの増田を擁立。

そもそも公明と組んでいるのがいただけない。

どこまで韓国に侵食されれば気が付くのか。




2.

私は自然農法が悪いとは思っていない。

ただ、農業技術の進歩は、それが神の法に適っている限りにおいて、積極的に採用すべきではないかと思っている。

自然保護運動は、たとえば、シーシェパードなど、適度の捕鯨すらも罪悪視するヒステリックな見解は、実は、「母なる大地」という異教の概念に由来する。

「異教」を意味する英語Paganismは、ラテン語paganus(田舎に住む人)に由来する。

異教と自然とは密接につながっている。

すべての異教の特徴は、自然とのつながり及び自然への崇敬であり、通常、多くの神々や女神たちを信じる多神教である。

異教とは自然宗教であり、換言すれば、異教徒は自然を崇拝する。異教徒は、神を、生命全体及び宇宙に内在する者と見る。すべての木々や植物、動物、物体、男女、生命の光の部分だけではなく影の部分にも宿ると考える。

異教徒は、自然のサイクル、四季、命、死と調和した生活を送る。

http://www.crystalinks.com/paganism.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Paganism

自然への愛着や敬意そのものが問題ではなく、自然を神の被造物と見て、それを「あるべき姿から落ちた状態にある」と認識するかどうかが問題である。

われわれの前に存在する自然は、崇拝の対象ではなく、神の栄光の現れであると同時に、クリスチャンの手による回復が必要な対象である。

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。(ローマ8・19-22)

クリスチャンが自然に働きかけるときに、自然は虚無、すなわち、「滅びの束縛」から解放され、クリスチャンの体が「滅びることのない体」に復活するように、復活し、永続するようになる。

それゆえ、自然は「神の子どもたちの現われ」を待ち望んでいる。

自然は滅びるのではなく、「栄光化」され、「神の子どもたちの栄光の自由の中に入」るという望みを抱いている。

自然には「切実な思い」がある。つまり、どの被造物にも意志がある。「ともにうめきともに産みの苦しみ」をしている。

草も木も、猫も犬もライオンも岩石も、アダムにあって呪われ、滅びつつある状態から、クリスチャンの復活とともに解放されることを望んでいる。

クリスチャンによる自然への働きかけとは、「解放の働き」であり、歴史の終焉、つまり「完全な栄光化」の時までの間に「漸進的に」進む。

クリスチャンは聖書の法にしたがい、科学的知識を応用しつつ自然を扱うことによって、実は、自然を徐々に復活させているのである。

それゆえ、神の国が拡大すると、植物も動物も繁栄する。つまり、堕落前のように、長寿化・多産化・巨大化する。

3.

神の国とは、クリスチャン同士が有機的に結びつくことによって成立する。

レビ人は、祭祀や教育を担当し、そのため資産を持たなかった。

糧は、仕事をする他の部族からの献げ物のみに依存するように命令された。

同じように、新約聖書において教えを担当する人々に対しては、物質的なもので返すよう命令されている。

この結びつきが途絶えるならば、それは、交わりの拒否である。

そのため、献金を拒否する人は、交わりにある人、つまり、クリスチャンとしては認められない。

これは、聖書の教えであり、神の命令であるから、その教えを唱える人が異端にならない限り、霊的な恵みには相応の報酬を支払うべきである。

 

 

2016年7月11日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net