神の国とその義とをまず第一に求めよ


1.


偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。
『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」(マタイ15・7-9)

「人間の教えを、教えとして教えるだけ」の礼拝は「むだなこと」である。

いくら「神を敬」っても、それは「口先で」あり、そのような礼拝は「心が神から遠く離れ」ている単なる人間の行事である。

「人間の教え」を優先することは、礼拝を無益にする。

だから、聖書啓示を最高権威とするヴァン・ティルの前提主義を取らない教会の礼拝は無益であり、そのような礼拝に出ても時間の無駄である。

クリスチャンは狭い門から入り、狭い道を進む。

その狭い道は、進めば進むほどますます狭くなる。

また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、{妻、}子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。(マタイ19・29)

狭い道を進めば進むほど、捨てなければならないものが増える。

「わたしの名」と「家、兄弟、姉妹、父、母、{妻、}子、あるいは畑」のどちらを選ぶか選択を強いられる。

後者を選ぶならば、「その幾倍もを受け」ることなく「永遠のいのちを受け継」ぐこともできない。

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。(マタイ16・26)

妥協して「全世界」を手に入れたとしても、「まことのいのち」を失ったら、すべて無益である。

2.

神の国は、「人間の教え」を使って得られるものではない。

昔「罪を強調すると人が不快になるので、弱さという言葉に置き換えよう」とした教会があった。

これは「宣教は人間の教えで拡大する」という間違った信念に基づいている。

違う。

神の国は「天から下ってくる」のである。

イエスは、逮捕しようとした人々にあっさり捕まった。

弟子たちも戦わなかった。

それでも神の国は到来した。

なぜならば、それは、人間的な方法で戦って得られるものではないからである。

神の国は「御言葉を伝えるときに」天から下ってくる。

人が救われるのは、われわれが御言葉をそのまま伝えるときに、御霊が働いて人を変えるからである。

われわれの作為で人を変えたとしても、それは「回心」ではない。

私は「律法を現代に適用しようとしている」と非難され免職にされかかった。

「なぜわれわれを縛ろうとするのか」と。

律法による縛りは、解放である。

「姦淫するな」という教えは縛りではなく、解放である。

人の目に、姦淫する自由は解放に映るかもしれない。

1960年代に共産主義者が「性の解放」を唱えたが、人々はポルノや自由恋愛によって自由を失った。

姦淫は束縛である。

姦淫している人は、奴隷である。

罪はそれがどのようなものであっても、奴隷化であり、人をがんじがらめに拘束する。

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。(ヨハネ8・34)

「律法を束縛と見る」教えは、「人間の教え」であり、それゆえ、神の国をもたらさない。

神の国は「律法を尊重し、守り行う」ときに、天から下ってくる。

神の国の進展は、人間的な作為をすべて排除し、どれだけ御言葉に忠実になれるかに依存している。

3.

神の国は、この世界とまったく違う原理で動く。

どんなに悪魔崇拝者が世界の経済を牛耳り、ありとあらゆる組織をコントロールしても、われわれによる御言葉の忠実な実行には勝てない。

悪魔から送られた人々がいかにわれわれの足を引っ張っても、われわれが御言葉に忠実に歩むときに、敗北して、消えていく。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6・33)

われわれが求めるのは、ただひたすらに「神の国とその義」である。

「神の国とその義とをまず第一に求め」ていれば、「それに加えて、これらのものはすべて与えられ」る。

 

 

2018年1月5日



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