正典選択の過程も神の霊の導きがあった


ニケア公会議で聖書の選定が行われた、とダヴィンチ・コードのダン・ブラウンが述べる。


「いま福音書は四つとされているが、実は八十を超える福音書があり、コンスタンティヌスが開いたニケア公会議で、潤色された四つの福音書が選ばれた」。

http://www.kyoyusha.com/hensyu-kiji-3.html

この説の根拠は「正典決定の方法は、会議の祭壇の上から競合する書を落として上に残ったものを採用した」 と述べた啓蒙主義者ヴォルテールの説である。

このヴォルテールが論拠としたのがVetus Synodicon(使徒の時代から887年までをカバー)という疑似史料であり、そこにはこう書かれている。

The canonical and apocryphal books it distinguished in the following manner: in the house of God the books were placed down by the holy altar; then the council asked the Lord in prayer that the inspired works be found on top and--as in fact happened--the spurious on the bottom.

正典と偽典は次のようにして選別された。すなわち、神の家の中で、もろもろの書が聖なる祭壇のわきに置かれた。会議は、祈りの中で主に「霊感を受けた書が上に来て―事実それが起きた―偽書が下に来るように」と求めた。(Vetus Synodicon, 35)

つまり、正典選出の根拠は偶然だったというのである。

これは、ありえない。

正典の選出がいいかげんであれば、正典そのものの内容にこだわる意味はなくなる。

歴史的・文法的な解釈を厳密に行う意味がなくなる。

それは、「神が契約の民を見捨てられた」ということと同義である。

契約の民に権威としての御言葉を示さなければ、神は神ではない。

御民が誤謬の中をさまよい歩くことを見過ごすような神は神ではない。

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」(マタイ4・4)

「人は神の口から出る一つ一つのことばによる」のであれば、その言葉がどれであるかも明確に示されるはずだ。

それゆえ、正典選択の過程も神の霊の導きがあった。

そして、それは正しく選択された。

正典選択の過程について、信者の信頼を崩そうとするのはサタンである。

このような攻撃にひるんではならない。

 

 

2016年5月6日



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