なぜキリスト教は本能を悪と見、理性を善と見がちなのか2


<TT>
ローマカトリックが理性を堕落の影響外と見ていたことを思い出しました。バチカン写本はグノーシス写本なので、そういう影響があるのかもしれませんね。グノーシスの観点から聖書を改ざんしてバチカン写本などができたと見るのが正しいのでしょうね。

福音派がグノーシス的なのは、神学的にGバーンセンまで行き着いていないからかもしれませんが、霊肉二元論の影響が強いのは、バチカン写本90%、シナイ写本7%の聖書を使っているためなのかなとも思います。

<tomi>
おっしゃるとおり、ウェストコットとホート以来、福音派の教会は、グノーシスの聖書を使っています。

そのため、クリスチャンが、霊肉二元論の考えになってしまいました。

「この世の仕事をして、何になるんですか。いずれ焼き滅ぼされてなくなってしまうもののために働いて何になるんですか。献身して、永遠に残る魂のために働くべきではないですか?」と、以前属していた福音派の教会の牧師は言っていました。

聖書ではそんなこと言っていませんが、霊を一段高く、肉を一段低く扱う考えならそうなります。

聖書は、「われわれが召されてついた仕事は、それがいかなるものであろうと、神のために行うならば、永遠の相続の対象になる」と教えています。

「不正の富によって永遠の世界に招いてくれる友を作れ」と言われています。


そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。(ルカ16・9)

不正の富とは、文脈から判断すると「はかない地上の富」という意味です。「悪事をなして得た富」ではありません。

この世界の富は消えてなくなります。

1000億円の資産家でも、いずれなくなります。

車も家も古くなり、ぼろぼろになります。

しかし、神のためにそれらを所有すれば、それは朽ちないものになり、神様がカウントして、永遠に所有できるようにしてくださいます。

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」(マタイ6・19-20)

しかも、すべてを神に献げ、明け渡した人の場合、財産は百倍になります。

イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。(マルコ10・29-30)

「捨てる」とは、「イエスを何よりも優先する」という意味です。

家族や財産以上にイエスを優先するならば、家族も財産も百倍になる。

ですから、旧約の人々は、すぐれたよみがえりを得るために、拷問を耐え忍んだといいます。

…またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。(ヘブル11・35)

妥協すれば釈放されるところを、妥協せずに拷問を受けたということでしょう。

それは、「さらにすぐれたよみがえり」を得るため。つまり、永遠の世界において少しでも良い状態で復活するため。

以上、聖書の思想において、物質を軽視する思想はありません。

あくまでも、「復活」とは新しい「からだ」への復活でした。

福音派の中には、「旧約のイエスの御名『我はある』は肉体を持っていなかったので、新約のイエスの御名イエス・キリストよりも効果がある」という人すらいます。

肉体がかかわると、霊力が落ちるとかも間違った考え方です。

ウェストコットとホートの改革とは、プロテスタントのクリスチャンをカトリック化することでした。

ローマ・カトリックがイエズス会を通じてイルミナティに牛耳られていた(今でも黒教皇はイエズス会のトップhttp://nikusiminorensa.at.webry.info/201105/article_4.html)ので、カトリック化するとは、グノーシス化すると同義であり、霊肉二元論の異端になるのと同義です。

今の翻訳聖書を使っている限り、私たちは、グノーシスから離れることはできないでしょう。

 

 

2012年7月20日

 

 ツイート

ホーム

ツイート

 





robcorp@millnm.net