新約時代においてイスラエルは完全に退けられたわけではない2


1.

神と悪魔の対立軸は、神の国と悪魔の国という形で現れている。

神の国は、イエスがイスラエルの王となり、「栄光のイスラエルの再興」が実現した紀元70年に正式に始まった。

「神の国は、イスラエルが捨てられて、異邦人が主役になることによって作られる」と考えると、置換神学の誤謬に陥る。

神の国は、異邦人の国ではない。

あくまでも、それは「再興した真正なるイスラエル」から始まるのである。

大宣教命令を見れば明らかなように、クリスチャンユダヤ人(羊系ユダヤ人)が「異邦民族を弟子とする」ことを通じて、神の国は拡大する。

今のキリスト教が基本的に置換神学的であり、「反ユダヤ」的な性格を強く帯びているのは、この基本ラインを理解していないからである。

「ユダヤ人は捨てられて、異邦人に置き換えられた」とする置換神学の影響が残っているから、律法は忌むべきものとして扱われ、セオノミーに対する根強い反感がある。

教会(エクレシア)とは、「イエスによって再興されたイスラエル」なのである。

それゆえ、旧約聖書の律法も預言も有効なのである。

それらは、イエスによって成就され、確立された。

今日、われわれは、確立された律法と預言のもとに存在する。

2.

クリスチャンになるということは、「再興されたイスラエルの国民になる」ということである。

それゆえ、クリスチャンには「旧約聖書において明らかにされた、イスラエル国民に与えられた律法と預言」が適用される。

ただし、祭司職が変化したので、律法も変化した。


祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません(ヘブル7・12)

新約時代において、大祭司は、レビ人から、ユダ族のキリストに変わった。

しかも、そのキリストは「メルキゼデクの位に等しい大祭司」となられた。

イエスは私たちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。(ヘブル6・20)

メルキゼデクは、イスラエル民族が誕生する前の、アブラハムの時代の祭司である。

というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。(ヘブル7・10)

つまり、祭司職は「ユダヤ人に限定されない」時代になった。

祭司職が超民族化したので、律法も超民族化した。

律法は、古代ユダヤ人という「時代的・地域的・民族的」な制限のある規則から、「超時代的・超地域的・超民族的」なものに変化した。

それゆえ、律法は、あらゆる時代のあらゆる民族に適用されるように、普遍化された。

われわれは、律法のエッセンスを取り出して、それを普遍的な法として適用すべきである。

置換神学的理解では「律法はユダヤ人に属するから廃棄された」となる。

しかし、聖書は「律法は廃棄されていない。むしろ確立されている」と教えている。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)

3.

ディスペンセーション主義の影響で、教会は「無律法」になった。

ディスペンセーション主義は、律法をある時代にのみ適用される統治手段と見る。

それゆえ、今日のクリスチャンは「無法化」してしまった。

基準を喪失したので、まるで「共産主義者」のようになった。

共産主義は、無神論であり、普遍的な倫理を否定する。

目的のためなら、手段を選ばない。

それは、今日の中華人民共和国を見ればわかる。

ウイグル人やチベット人に対する民族浄化が行われている。

今日、クリスチャンに基準がないため、人間の法が幅をきかせている。

一方では「律法はわれわれを縛りません。自由になりました。」と言いながら、他方では「酒やタバコは禁止」と言う。

自分勝手な規則を作って人を裁くということが横行している。

4.

ディスペンセーション主義は、「将来、イスラエルは国を再建するだろう」と主張してきた。

そして、1948年イスラエル国が誕生すると「聖書の成就だ」と言った。

この国を作ったのは、ロスチャイルドという悪魔崇拝者である。

罠だとどうして気づかないのか。

アメリカのクリスチャンは、この悪魔崇拝者が作った国を支援し、神殿再建まで支持している。

神殿が再建されたら、イエスの御業は無効になるのである。

イエスはご自身の体こそが神殿であると言われた。

イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2・19)

三日目に復活したイエスは、神殿なのである。

聖書はクリスチャンの体こそが神殿であるという。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(1コリント6・19)

紀元70年に、イスラエルは再建された。

神殿が崩壊し、イエスとクリスチャンの体が神殿となる時代が到来した。

私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。(ヨハネ4・20-21)

イエスとクリスチャンの体が神殿であるから、礼拝は世界中で行うことができる。

エルサレムには限定されない。

だから、パレスチナの地にイスラエルが再建されるなどということは起こりえないのである。

旧約時代の礼拝システムが復活することなどありえない。

クリスチャンはロスチャイルドに騙されているのだ!

5.

次の2つの極端から解放されよう。

(1)イスラエルは再建されない。ユダヤ人は捨てられた。旧約聖書の律法も預言も無効化した。

(2)イスラエルはパレスチナの地に再建された。旧約聖書のシステムが復活した。旧約の律法も預言も復活した。

正しい理解は、

(1)イスラエルは紀元70年に再建された。クリスチャンユダヤ人を中心に世界の異邦民族が弟子化される時代が到来した。異邦民族は再建されたイスラエルの中に入ったので、律法も預言も「普遍化された形で」有効である。

(2)イスラエルはパレスチナの地に再建されない。旧約聖書のシステムは復活しない。旧約の律法も預言もそのままの形では復活しない。

である。

正しい理解に至らない限り「無律法」「無預言」「反ユダヤ」という置換神学の誤謬に陥るだろう。

 

 

2018年11月1日



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