入れ墨について


よく入れ墨の図柄に「目」を入れないほうがよいと言われる。

目が入ると入らないとでは違うという。

どういうふうに違うのかはわからないが、おそらく目を入れると悪魔の憑依度が高まるのだろう。

入れ墨は聖書において禁止されている。

「あれは、旧約聖書の規定だから今は関係ない」という人がいて、牧師でも入れ墨を入れる人がいる。

しかし、聖書に規定がある以上、神は入れ墨を喜んでおられないとわかる。

入れ墨の目的が神の栄光にあるとは思えない。いやむしろ、サタンの憑依を招くのではないかと思う。

図柄も問題である。爬虫類が多い。

竜とかヤモリとか。

サタンは「年を経た蛇」と呼ばれている。

蛇そのものが悪魔の象徴というわけではない。なぜならば、イエスは「青銅の蛇」として表現されているから。

しかし、聖書において圧倒的に竜や蛇はサタンを象徴する動物である。

植松容疑者の背中の入れ墨には目があった。

「ヒトラーの思想が下りてきた」という。

大量殺人の霊に憑依されたとしか思えない。

クリスチャンには、目に見えない刻印が額に押されている。

エゼキエル書9・4では、真の契約の民の額には「タウ」の文字が押されていると記されている。


「主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」

ここで「しるし」と訳されているヘブライ語は「タウ」である。当時タウの文字は現代のような形ではなく、十字架の形をしていた。

http://www.oignoto.com/studies/tidbits/ezekiel9-mark.htm

つまり、契約の民の額には目に見えない「十字架」が記されている。

これに対して、サタンはノンクリスチャンの額に獣の数字を刻印する。

また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。(黙示録3・16-18)

われわれは、自分の持ち物に名前をつける。

入れ墨は「所有物」であるとの宣言である。

誰の所有物?

神が禁止されたのであるから、サタンの所有物である。

竜や蛇や他の爬虫類の入れ墨を掘るという行為は、サタンの側からすれば「思うままに働きますとの宣言」に見えるだろう。

だから、憑依されて、殺人を犯すようなことをさせられても文句は言えない。

それから、皮膚は外界と体内を分ける結界であり、この結界に傷をつけ、墨を入れることは、「結界を解いた」ことを意味する。

植物の場合、皮には栄養素が豊かにある。外界から身を守るためである。

入れ墨を掘る人は、それにより、ばい菌や悪霊が侵入しやすい状況を自ら作り出している。

もちろん、ノンクリスチャンの時代に入れ墨を入れて、その後クリスチャンになった人が入れ墨を過度に心配する必要はない。

なぜならば、クリスチャンはイエスにあって悪霊よりも強いからである。

信仰があれば、入れ墨があるかないかなど問題ではない。

ただ、様々な理由でクリスチャンは入れ墨を入れるべきではないと思う。

 

 

2016年8月2日



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