法的な贖いと実際的な贖い
その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)
1.
「地にあるものも天にあるものも」、つまり、宇宙にあるいっさいのものが、御子によって和解された。
ということは、十字架以前、宇宙全体が神と敵対していた。
アダムが堕落したときに、宇宙全体が堕落し、神に敵対するようになった。
人間だけではなく、生物も無生物もすべてが堕落した。
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ8・19-23)
「被造物全体」が「滅びの束縛」の中にいる。
その「解放」は、「神の子どもたちの現われ」、その「からだの贖われること」によって達成される。
「御霊の初穂をいただいている」状態では足りない。
「からだの贖」いこそがゴールである。
からだが贖われるときに、被造物は解放され、滅びから救われる。
「子としてくださる御霊を受けた」(16)人は、まだ完成の途上にある。
「からだの贖」いがない限りは、不完全である。
2.
その「からだの贖」いは、いつ起きるのか。
それは、(1)法的と(2)実際的の二段階で起きる。
(1)
われわれが現在持っている血肉のからだは贖われている。
もし贖われていなければ、聖餐を受けることはできないはずである。
キリストの御体と一体であることを示す聖餐を受けられないはずである。
コロサイ1・20にあるように、全被造物はすでに「贖われた」のである。
ただ、それは法的贖いである。
(2)
実際の贖いは、昇天のときに起きる。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(1コリント15・51-52)
「携挙」のときに「からだの復活」が起きる。
この携挙はいつ起きるのか。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。(1テサロニケ4・15-18、5・1-5)
「キリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
「キリストにある死者が、まず初めによみがえ」り、次に「生き残っている私たちが」よみがえる。
「生き残っている私たち」とあるから「私たち」が「生き残っている」ときである。
さて「私たち」とは誰か。
紀元1世紀に生きていたパウロとテサロニケ教会の人々である。
「兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」
つまり、テサロニケの教会の人々が携挙されるのは「突然ではない」。
もし、携挙が紀元1世紀に起きなかったとすれば、パウロはここで「ウソをついた」ということになる。
「突然起きない」、つまり、「あらかじめ到来は予測できる」と。
ということは、「テサロニケ教会の人々が携挙される」という前提でパウロは語っている。
それなのに、携挙が起きなかったとすれば、パウロは嘘をついたのである。
そして、その嘘の預言が記された手紙を、クリスチャンは2000年も聖書として選択してきたと。
神が嘘を聖書として選択することを許してきたということは、神も嘘つきということになる。
携挙が未来に起きるという説を信じる人は、神を嘘つき、契約違反者と断罪しているのである。
携挙は、テサロニケ教会の人々が「生き残って」いるうちに起きた。
つまり、紀元1世紀に携挙は起きた。
4.
「からだの贖い」は、紀元1世紀に起きた。
「キリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが」よみがえった。
テサロニケ教会の人々は、生き残っている間に携挙され、そのまま体が朽ちぬ体に変えられて今も天にいる。
ということは、われわれも同じ体験をするということである。
復活は紀元1世紀に起こって、それ以降、死んだクリスチャンは、魂で天にいる、というのはおかしな話である。
われわれは、この肉体を離れると同時に、朽ちぬ体に変えられるのである。
われわれは、死ぬと同時に、永遠のからだ、御霊のからだに変えられて、天において「御霊のからだで暮らす」のである。
イエス・キリストは、現在、復活体で天におられる。紀元1世紀以降、すべてのクリスチャンは、復活体で天にいる。
われわれも、死ぬと同時に復活体を与えられて、天において暮らす。
5.
クリスチャンのからだは、十字架以降、法的に贖われているが、紀元1世紀の携挙以降、昇天の際に、実際的に贖われるようになった。
全被造物も、十字架以降、法的に贖われている。
しかし、実際的な贖いは、世界の弟子化が完成した後、全世界の栄光化の後に起きる。
なぜならば、実際的な贖いを受けたクリスチャンは天にいて、地上にはいないからである。
被造物の回復は、地上にいるクリスチャンのからだの贖いが法的である限り、法的であり、限定的である。
6.
法的な贖いであるからといって、「実質的ではない」とは言えない。
それは「名ばかりの贖い」ではない。
法的とは「限定的贖い」ということであって「贖われていないと等しい」ということではない。
居住者がまだいるアパートの権利を法的に獲得したら、完全に自由にでき、それを壊して敷地にマンションを新築できないまでも「限定的に」主権を行使できる。
居住者から賃料を取ることができ、外壁の色を自由に変えることができる。
同じようにクリスチャンは「全世界に対して主権を完全行使できる」とまではいかないが、限定的に主権を行使できる。
われわれが祈り、行動すれば、世界は実際的に変わるのである。
2019年6月24日
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