聖書を契約の書として読まねばならない
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よく「洗礼者ヨハネとキリストは一度も出会っていない」とか「イザヤは2人または3人いる」という人がいる。
つまりリベラル神学を信じている人々であるが、決定的に間違っている。
どこが間違いかというと「聖書を歴史書として読む」という点である。
聖書とは証言書である。
イエスが証言者として任命した人々による正当な証言書である。
だから権威がある。
天地の主であるイエス・キリストによって直々に任命された人々、つまり、使徒たちによる証言書。
これに権威がある。
聖書の背後にある「歴史的事実」よりも、使徒たちによって「解釈された事実」のほうが権威がある。
われわれは、「時系列的に、もしくは、物理的に、ヨハネとイエスが出会うはずがない」などと詮索すべきではない。
なぜならば、使徒が「ヨハネとイエスは出会った」と証言しているからである。
その証言そのもので「決着がついた」と考えるべきである。
「いや、使徒がどう証言しようと、事実のほうが重要だ。われわれは考古学的、社会学的、その他の文献から『歴史的事実』を探ろうではないか!」というのは、神への反逆である。
神ご自身が、「私の証言者の言うことを聞きなさい」と言われているのに「いや、聞くのは嫌です。私は科学的真理のほうを選ぶ」というのは、契約違反である。
誰が主なのか。
神である。
ならば、神が命令されたことを第一とすべきだ。
それ以上のことを探ろうとし、「福音書を超える真理」を求めることは、「神よりも賢くなろうとする願望」つまり「ルシファーの願望」にほかならない。
以上からわかるように、リベラルの人々は、「人間理性至上主義者」であり、「聖書啓示を超え」ようとする人々である。
それゆえ、彼らは神のライバルであり、地獄の子たちである。
非六日創造説も同じように、悪魔の教えである。
神が六日で世界を創造されたと聖書において宣言されたのである。
それを「六日で創造?バカじゃないの」という人々は、自分の永遠の命を犠牲にしてそう語っていることに気付くべきだ。
そもそも進化論の大本はカントである。
http://www.millnm.net/qanda2/34wSfyAfLFdQ69820.htm
すでにこのHPで何度も述べたように、カントは「世界を自分の都合のよいように解釈する権利を人間に与えた人」である。
進化もその「自分にとって都合のよい、作り出された思考の枠組みを補強するための学説」であり、実証性や客観性はない。
グールドが述べるように、これまで出土した化石は「頭にくるほど進化を証言していない」。
この自分の頭の中で作り出された思考の枠組みをもっともらしく見せるために登場したのが、「膨大な時間」である。
進化論者は、進化が可能であると見せるために時間を長く設定しなければならなかった。
しかし、これらの進化説は、どれも非常に大きな時間的広がりを必要とした。アメリカにおいて生物進化を一般化するのに最も成功したローレン・アイズリーは、この点を繰り返し主張した。
どの進化の学説も、非常に長い時間を割り当てることなしには成立しない。しかし、当時支配的だったキリスト教宇宙論は、それを疑問視する科学者に対して、実にこの点について、ノーをつきつけたのだ。プトレマイオスの天文学とコペルニクスのそれとの間に起こったほどの大きな変化が、西洋思想における時間の概念にも起こらなければ、誰も、生物進化の可能性について考えることすらしなかっただろう。前者は後者の絶対必要条件なのである。
(Loren Eiseley, Darwin’s Century: Evolution and the Men Who Discovered It (Garden City, N. Y.: Doubleday Anchor, [1958] 1961), p. 58; cited ibid., p. 376.)
神と人間がキリストによって和解し、キリストを王とする神の国を形成し、それが歴史を通じて世界から悪魔を駆逐し、創造を完成する。
2014年5月8日
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