われわれは、互いに「いたわり合う」べきであり、敵視してはならない


あなたがたは、バプテスマにおいてキリストとともに葬られた。さらにあなたがたは、キリストにおいて、ともによみがえらされたのだが、それは、死人のうちよりキリストをよみがえらされた神の力がもたらす信仰による。(コロサイ2・12)(*)

「死人のうちよりキリストをよみがえらされた神の力がもたらす信仰」

われわれに信仰があるのは、「よみがえり」の力による。

神は、キリストを死からよみがえらされた。この復活の力によって、われわれをも復活させ、信仰が与えられたのである。

われわれは、かつて、霊的に死んでいたので、福音を聞いても反応しなかった。

水深1万メートルのマリアナ海溝の底に沈んで、しかも、サメに心臓を食われてしまったような状態にあった。

霊的なことを言われてもちんぷんかんぷんであった。

いつも世的なことを追求していた。

名声やお金、権力、人間関係、心配、死への恐怖、死への願望など。

聖書が何を教えているかなど、どうでもよかった。

しかし、神は、その死人であったわれわれに、命を吹き込まれ、心臓を元通りにし、海の深みから引き上げて、「自分は溺れている」と自覚させてくださった。

われわれが「自分は罪深い」と感じることができるのも、復活の力によってよみがえったからである。

死人はそんなこと考えない。「自分はなんて善人なのだろう」とうぬぼれる。

「十字架?なんで俺に救いが必要なのか。関係ない。」と福音を拒む。

われわれは、神と自分の関係について盲目であった。

なぜ「永遠の運命」を決定するこのような重大な問題について無関心だったのか。

死んでいたからである。

われわれが今、このように神について、聖書について、神の国について、福音について、興味や関心があるのは、神がわれわれを復活させてくださったからである。

異端の教えを聞いて拒否反応が起きるのも、生きているからである。

死人は、なんでも食べる。口に毒物を入れても吐き出さない。

生きている人は、毒物を飲み込むと吐き出そうとする。

自分の体に危険なものが入らないように自己防衛本能が作動する。

信仰とは、「死人のうちよりキリストをよみがえらされた神の力がもたらす」ものである。

信仰は、神の復活の力が働かない限り、持つことができない。

つまり、神が選んでおられない限り、人は、信仰を持つことができないし、それを維持することもできない。

途中で異端にそれていく人は、もともと選ばれていなかったのである。

選ばれていなかったので、死人のままだったのである。

ゾンビだから、毒でも何でも口に入れて飲み込むことができる。

聖書と矛盾するような教えを信じ、それを平気で唱えられるのは、ゾンビだからである。

まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。
というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。(1コリント11・18-19)

クリスチャンと呼ばれる人でも、付き合っているうちに、意見の違いが生まれることがある。

もちろん、些細な問題であれば、意見の違いはあるだろう。

しかし、「予定論」や「信仰義認」、「セオノミー」、「前提主義」、「千年王国説」、「プレテリズム」などの聖書の重大な教えに関して意見の違いは起こりようがない。

同じ聖霊をいただいているならば、意見は「必ず」一致するはずである。

だから「分裂」は「ほんとうの信者が明らかにされ」た結果として起きる。

これは聖霊の働きである。

神は、人をふるいにかけられる。

こちらが提示した正統的な教えを拒絶する人は「神のふるいにかけられて落ちた」のである。

「いのちの書」から名前を消されたのである。

兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。(ローマ16・17)

聖書的な教えにそむいて分裂するような人々からは「遠ざか」るべきである。

教えを拒否したわけではなく、「単なる感情論」で分裂した場合、それはその人の「罪」である。

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。(1コリント12・25)

同じ信仰に立つ人々が、単なる感情論で分裂する場合、それは「からだの解体」であり、神の国に直接害を与える重大な罪である。

われわれは、互いに「いたわり合う」べきであり、敵視してはならない。


(*)

繰り返すが、パウロは、「〜の信仰」(#gs#pistiV#ge# + 属格)と「〜に対する信仰」(#gs#pistiV#ge# + #gs#en#ge# + 与格)を区別して表現している。

「〜に対する信仰」(#gs#pistiV#ge# + #gs#en#ge# + 与格)は、「〜」の部分を目的語として訳するしかないが、「〜の信仰」(#gs#pistiV#ge# + 属格)は、「〜」の部分を主語として訳することも可能である。

ひと繋がりの文章の中で、この2つの表現を同時に用いているので、意味を区別していると考えるべきである。

 

 

2018年5月24日



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