自由を求めるならリスクを甘受すべきである


(1)

次々と市場を奪われる日本企業。

アベノミクスは、円安にして輸出企業の業績改善をはかる政策だが、輸入品価格が高騰して貿易赤字に転じた。

単に円安にしても問題は解決しない。

何が日本をおかしくしたのか。

臆病である。

なんでも危険なものを回避しようとする。

人間関係でもかつての日本人は豪胆で、ぶっきらぼうだった。

酔っぱらってバッターボックスに立つので有名なプロ野球選手がいた。

そういう武勇談が称賛された。

モノの売り込みに関しては日本の商社マンの気迫はものすごかった。

海外で何かの契約案件があると分ると、その企業の入り口で待っているのは日本人だけだった。

ドアが開くと、われ先に駆け込んだと聞かされた。

私が大学を卒業したころは、こういう猛烈な社員があふれていた。

このような気概のある日本人が徐々に減っていき、今や、ジェントルマンばかりになった。

そして、先人が築いた市場のシェアをどんどん外国人に奪われている。

この根底にあるのは、「リスクは悪だ」という間違った思想である。

幼稚園で、教師が「競争は悪です。みんなで手をつないでゴールしましょう」と教える。

ちょっと暴力事件が起きると、部員全員が処罰される。

活力ある社会とは、自己責任を追及する社会である。

「たばこや酒は有害だ。だから完全禁止だ」

自制心を前提に神が与えられた嗜好品を全面禁止する。

つまり、最小公倍数を求めるのである。

「全員で低いレベルに落ちましょう。全面禁止にして、全員が安全な社会にしましょう」と。

次第に自由がなくなる。

好きなものが食べられなくなる。

先日の「レバ刺し禁止」もそうだ。

一部で問題が起きたのであれば、それを処罰すればいいだけの話。

全部禁止にする必要がどこにあるのか。

食べたい人は、危険性を承知の上で、自己責任で食べればいいだけ。

たしかに、たばこや酒は、一歩間違えると中毒になって健康を損なう。

しかし、こういう物は、「たばこで病気になった?それは自分の健康管理が悪かったんでしょう」で済ませる。

BPOで、あらゆる危険なものが放送できなくなった。

放送業界は、訴訟を恐れて、ちょっとでも反対があると、それを自粛する。

そうやって、「全員が安心する番組」を作ってどうなるのか。

絶対につまらない物しかできない。

「最小公倍数を求める」と社会は活力を失い、みんな「いい人」になって、経済もダメになり、国力も落ちる。

今の司法もこの「最小公倍数」病にかかっている。

「犯罪者にも人権がある」とかの理由で故意の殺人者を処刑しない。

(2)

全員が幸せになる社会など不可能である。

犯罪を犯した人間には、その犯罪の程度に応じて罰を下さなければ全員が不幸になるのだ。

全員が失業しない社会を目指すことは、国そのものを失業させることになる。

神は、人間に自由を与えようとされる。

だから、善悪の知識の木と地獄を作られた。

自由を得たいならば、責任を取ることを回避してはならない。

 

 

2014年3月4日



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