聖書的な競争とイルミナティ的な競争
神の創造世界における競争とは、自然という大きな有機体を効率よく成立させるためである。
たとえば、ある池の中の魚は弱いものもいればそれを食べる強いものもいる。
しかし、強いものは弱いものをすべて食べつくさない。
弱い魚の生存を脅かすような捕食を行えば自分も生きていけなくなる。
だから、強い魚と弱い魚は互いに存在を認めあって共存している。
人体も同じである。
目という物を見るという機能に関して、目より優れた器官は存在しない。
だからといって、目は「他の器官は役立たずだ、俺が勝利したのだから、お前たちはいらない」とは言えない。
他の器官があるからこそ目は存在できる。
器官は互いに人体と言う有機的組織体を成立させるために共存する。
人間社会も同じように、全体が有機的組織体であり、不要なものはいない。
互いに役に立っている。
だから、強者は弱者に対して「弱いからダメだ」というような見方をすべきではない。
強者も弱者によって生かされている。
組織体を成立させるために、互いに互いを認め合うべきである。
EUは、関税を撤廃し、同一通貨によって結合した国家の集合体である。
だから、当然のことながら、勝ち組と負け組が生れた。
ドイツは勝って、ギリシアやスペインは負けた。
負けたギリシアに対してドイツは「お前たちは怠け者だから負けたのだ」というが、これは、EUという組織体を作った本来の目的に反する態度である。
組織体としてまとまったからには、弱者の存在を認めなければならない。
つまり、強い者は、弱い者を助けて、生存できるようにしなければならない。
そうじゃなければ、最初から組織体を作るべきではなかったのだ。
互いに組織体ではなく、独立しているならば、スペインは関税自主権を行使して、安価な工業製品に関税をかけて、自国産業を守っただろう。しかし、域内でそれが撤廃されたから、ドイツ製の性能のよい工業製品が入っても太刀打ちできなかった。
TPPは同じように、関税自主権がないため、日本において弱い農業などは壊滅的打撃を受けるだろう。
それに対して、政府は「人件費が安いベトナムあたりにいって農業やれ」と言えるだろうか。
各国には、国柄というものがある。歴史がある。独自の言語や習慣がある。
EUとかTPPの理念とは、こういった国という単位を無視した乱暴な議論なのだ。
聖書では、神が国境を定められたとある。
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。(使徒17・26)
2012年11月28日
ホーム