結果は主に委ねるべきである


ポスト・ミレの教理を誤解してほしくない。

ポスト・ミレの教理において、勝利は遠くの港の灯のようなものである。

「最終的に善は勝利する」と主張するのであって、「すべての過程において勝利する」とは約束されていないということである。

その灯に最終的に到達することが約束されているが、その過程はどうなるかは不明である。

たとえば、われわれは、都政について、「御心が天で行われるように東京都においても行われますように」と祈る。

祈ったからすぐに、東京都では御心が完全に行われるようになる、とは限らない。

どんなに祈っても、舛添のような人間が都知事に選ばれる。

次に、移民を許容するような人間が選ばれる。

ポスト・ミレにおいて、「歴史の過程は変動する」。

つまり、善にも悪にも揺れる。

毒麦も育つ。

毒麦が明らかになったときに裁きが行われ、取り除かれるのは確実だが、裁きに至る過程において毒麦が最初から存在しないということはない。

われわれの個人的な成長でもそうである。

最初から聖人になれる人はいない。

いろんな体験を積み上げながら、悪の部分が矯正されていく。

神はご自身のことを完全にご存じであるが、人間は自分のことすら知らない。

自分にどういう才能があり、どういう悪いところがあり、どういう性癖があるかも知らない。

出来事を通じて、そのようなものが発現し、自分を理解する。

失敗しないとわからないこともある。

だから、神はあえて自由を与えられ、失敗することを許容される。

たとえば、ペテロは完全に主に従う覚悟があると自分のことを思っていたが、イエスが逮捕され、カヤパの官邸で尋問されているときに「彼を知らない」と3度イエスを裏切った。

イエスは彼が裏切ることをご存じであったが、ペテロは知らなかった。

ペテロは、自分が弱い存在であることを痛感した。

歴史も「自分を知る過程」である。

人類は、歴史を通じて神を知り、人間を知る。

だから、ポスト・ミレが「勝利の連続」を唱えていると考えるべきではない。

中国がこれから世界の覇権を取るかもしれない。

そして、日本を支配し、日本人がチベット人のように民族浄化の対象となるかもしれない。

イスラエル人のように、世界に散らされるかもしれない。

聖書において日本人の運命が事細かに啓示されているわけではないので、これから先の歴史がどうなるかわからない。

そのようなことで失われるような信仰ならば、信仰ではない。

アメリカに最初に入植したクリスチャンたちは、全員風土病で1週間のうちに死亡した。

「神様、ひどすぎます!」というだろうか。

それは、自分が神を規定している態度であり、偶像礼拝である。

神が自分の人生に定められた過程が、失敗の連続であり、最後まで失敗するかもしれない。

それをなぜ喜べないのか。

世間的に失敗しても、それが神の御心ならば、成功なのだ。

「御心のようになりますように」とマリヤは祈った。

この地上における細かな過程については、神にゆだね、運命を受け入れるべきである。

城を攻めとるときに、城壁をよじ登っている先頭の兵士はほぼ確実に矢に当たって死ぬ。

次々と死ぬが、幸いにも矢が当たらなかった兵士が、城壁の中に入って中の人間と戦う。

第一陣が全員死亡しても、第二陣、第三陣と、攻めていけば、いずれ敵は倒れる。

悪魔の国を攻めとる過程において、最初の兵隊は「無駄死に」するかもしれない。

なんの成果もあげられずに死ぬかもしれない。

しかし、神の目から見れば「必要な死」なのである。

時間がたって、神の国が成長し、力を得たら、クリスチャンたちは国政を動かし、経済の主役となり、マスコミも全部聖書的な放送になるだろう。

それを最初から期待できない。

最初はみじめに見える生活である。

ほとんど成果を上げることはできない。

しかし、この段階を回避しては、勝利は不可能である。

ポスト・ミレとは、その「無駄死に」も含めての勝利を唱えている。

20年くらい前に、皇室と親しいクリスチャンがいて、内部の事情について聞いたことがある。

創価学会が進出していると。

今になって、わかるようになった。

日本の中枢の中枢がすでにやられている。

これを覆すのは容易ではない。

幸い、国民が左翼の実態を知ることができるようになった。

日本については、私は奇跡が起きて守られると信じる。

最善の努力をすべきである。しかし、結果は神にゆだね、神の決定のすべてを受け入れるべきである。

なぜならば、最終的に勝利はわれわれのものであると約束してくださっているから。

 

 

2016年8月3日



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