最善を尽くして失敗してもそれが成功である


世の人は、神の国と関係なく生活する。

自分の計画や願望をかなえようと努力する。

われわれも、まだ神の取扱いの方法に慣れていないときに、そのように考える。

自分で夢を抱いて、努力する。

そして、それがかなわないと嘆き悲しむ。

しかし、自分の主人公は自分ではないということを理解すると、結果に左右されなくなる。

神の国に入るということは、神に人生のかじ取りをゆだねたことを意味する。

クリスチャンになったということは、自分の人生を失ったも同然である。

自分の夢、たとえば、有名になる、お金持ちになる、出世するなどは、完全にあきらめさせられる。

その代わりに、神の国を建設するための一員として利用されるようになる。

この段階に到達するまでが苦しい。

無数の失敗を重ねさせられる。

訓練の中で苦しみ抜かなければ、自分を神に従わせることはできない。

非聖書的な教えを主張するうちは、まだまだ「野生味」が残っているのだ。

神の鞭と杖を受けてないから、聖書と違うことを主張する。

神は野生種であった動物を飼い馴らして家畜にするように、われわれを訓練される。

モーセは、まだ若かったころ、義憤に燃え、イスラエル人をいじめるエジプトの見張りを殺してしまった。

このような段階の状態では、神には用いられない。

まだ「暴れ馬」のような状態だからだ。

その後40年間無駄とも思えるときを荒野で過ごす。

徹底して砕かれてから、ようやく用いられるようになった。

友人のK氏は、変わった人で、変な計画を立てる。

「愛を伝えるために、キャラバンを組んで、北海道から演奏旅行に出よう。NHKに取材してもらうつもりだ」という。

昔、ジャズバンドのマスターをやっていたつてで、一流の演奏家を集めることができる。

彼らをその旅に同行させるというのだ。

しかし、私からすると、あまりにも変わっていて実現性は低いと見える。

若ければ取材してもらえるかもしれないが、78歳である。

その他、実現性のない計画を次々と立てて、失敗を繰り返している。

しかし、彼は単なる「変なおじいさん」ではない。

自分が計画していなかったことで、大きく用いられてきた。

偶然に真名井神社において六芒星を見つける。

これが大きな反響を呼んで今日の日猶同祖論の高まりの発端になった。

自分が立てた計画ではなく、神が立てた計画で神の国は進む。

自分の計画が成就してもしなくても、神の計画が成就すればそれで成功なのだ。

だから、最善を尽くして戦って祈って努力したら、結果はどうでもいい。

なぜならば、その結果が神の御心だから。

神の御心以上によいものはないのだから、われわれは成功者なのだ。

まだこのことがわからなかったころ、試験に落ちて志望校に入れなかったことが大きなトラウマになっていた。

自分の意図していない勉強をしなければならなかった。

しかし、最善を尽くして努力して結果が出たのであれば、それが神の御心なのだから、最善なので、われわれは満足すべきだ。

訓練が徹底すれば、われわれはモーセのように、すべての命令に忠実に従うことができるようになるだろう。

「でも、神様、この聖書の箇所は信じられません。あまりにも不合理です」みたいな文句を言っているうちは、まだまだなのだ。

 

 

2015年4月20日



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