三神論は異端である2


私の現在の信仰では、神は「存在論的には三者(つまり、神は3者おられる)」であり、「契約・法的には一者(つまり、3人は契約的に一者である)」と考えている。

リフォームドの人々によると、「存在論的に三者」は異端だという。

以下は、それに関する対話である。


私自身の立場といたしましては 基本的にウェストミンスター信仰基準に立っております。 これに加えて、三位一体論につきましてはニケア信条およびカルケドン信条を受け入れております。

その上で 現時点にて私が至っている理解につきまして 述べさせていただきたく存じます。

1)本体論的三位一体においては、
三位一体の神は 存在において三人であり、かつ 存在において一人である と信じております。
つまり三人であると同時に一人であると理解しております。 

これ以上のことは何も言えない。どうしてそうなるのかは、有限な人間の理解を超えていると考えます。それ以上の推論や憶測などは許されていないと信じます。 「どうしてそうなるのかはわからない」と言ってかまわないと信じます。

本体論的三位一体論において、三人の神が契約的に一人であると説明しますと、契約が神の存在を規定することになり、神の存在よりも契約が上位概念になってしまうと考えます。 神の存在がすべての根源でありすべての定義の根源であるということなので 本体論的三位一体論においては 契約的に三人の神が一人であるという必要はないし、そのようにいうことはできないと考えます。 「契約的に三人の神が一人である」と言ったとたんにそれは 経綸的三位一体論になってしまうと考えます。

三位一体の神は 存在において三人であり、かつ 存在において一人であるということは 人間の理解を超えているので、もしこれを無理に理解しようとするとなんらかの異端になってしまうと考えています。 キリスト教史においてこれを理解しようとする試みはすべて異端に帰結してきたと思います。

2)経綸的三位一体論においては 三人の神が働かれることにおいて、オランダ改革派の神学者たちがいうように、聖書的 inference として 三神格の間に契約が存在するということは可能であると思います。 経綸的三位一体論は神の存在そのものを存在論的に直接に取り扱うものではないので、それが可能だと考えます。

夫婦の結婚関係も、社会論も基本的には 経綸的三位一体を反映していると考えます。

というわけで 富井さんのおっしゃるように 本体論的三位一体論については思弁に走るべきではなく、 聖書に書かれているあるがままを信じることであるというのは まことに そのとおりであると思います。

<tomi>アーサー・ピンクがこのように述べています。

while the Scriptures are unmistakably clear in their presentation of three Divine Persons, nevertheless they are equally express in denying that there are three God's.

聖書は三位の神のペルソナを誤解の余地のないほど明確に示している。しかしながら、同じくらい明らかに、3人の神がいるのではないと述べている。

http://gracegems.org/Pink/spiritual_union_and_communion.htm

ピンクは「神は3人格ある一人の神である。しかし、聖書には、3人の神がおられるとは書いていない。」と言います。

しかし、聖書には「父なる神、子なる神、聖霊なる神がおられ、それぞれが別個のペルソナである」と啓示されていて、なぜ3人の神がおられないと言うのか不思議です。

存在論的に1者であり、同時に3者である。これは、まったくもって矛盾です。

さらに「子は父から産まれたが作られたのではない」という諸信条が示す真理も、父と子を存在論的に他者として示しています。

ウェストミンスター信仰告白では次のようにあります。

In the unity of the Godhead there be three Persons of one substance, power, and eternity: God the Father, God the Son, and God the Holy Ghost.

神のユニティのうちには、同一の本質と力と永遠性を持つ3つのペルソナがある。

ペルソナとは人格であり、3つのペルソナがあるということは、3人おられると考える以外にはありません。

それとも、一人の人に複数の霊が住むようなものと理解すべきなのでしょうか。しかし、神は霊であり、体はありません。

三神論の間違いは「統一性を無視する」という点にあり、三神そのものにはないのではないでしょうか。

私も契約概念が神よりも先在する、または、上位概念とは考えるべきではないとは理解していますが、しかし、聖書が「男女は神の似姿である」と言っているのですから「契約に基づく統一」が三位の神ご自身の間に存在すると理解「しなければならない」のではないかと思います。

その意味において、契約や法という概念は、神の属性の一部であり、それゆえ、神とともに永遠であると見なすこともできるのではないでしょうか。

リフォームド(改革主義)の立場は、新約時代における預言や異言の否定など、数々の誤謬があります。

聖書だけに頼っていると言いながら、聖書的な裏付けが不十分なままに信仰を形成している以上、常に改革は必要であると思います。

三位一体論についても、再考を要するのではないかと思います。

さらに、「存在論的に一」と考えると、「多様性の究極」の原理を犯し、汎神論に通じる部分があるのではないでしょうか。

ニケア信条やコンスタンチノープル信条には、明確には「存在論的に一」を示していません。

We believe in one God, the Father Almighty…, and in one Lord Jesus Christ…, and in the Holy Ghost….

われわれは、一人の神、全能の父、唯一の主イエス・キリスト、聖霊を信じる。

ここから「神は存在論的に一である」と読み取れません。

「父・イエス・聖霊」を信じるので、存在論的には「多」、「一人の神を信じる」ので、契約的・法的に「一」と考えることもできます。

私は異端になりたくないので、もし私に間違いがあるならば、訂正するにやぶさかではありませんが、リフォームドの立場の人々の説明では納得がいかないというのが残念なところです。

 

 

2018年11月15日



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