成果で霊的な活動を評価してはならない


企業家は、事業者を拡大する場合、自分を成功者として見せる必要がある。

なぜならば、人は結果を見て、実力を判断するから。

企業家がボロボロの家に住んでいたら、投資家は心配になり、株を買わなくなるかもしれない。

だから、会社を興して商売を拡大しようとするならば、多少の見栄を張るのは当然のことだ。

企業家は、愚か者であってはならない。

策略家でなければならない。

結果を気にすべきだ。

自分が有能であることを投資家に対して証明しなければならない。

しかし、霊的な活動はまったく別である。

霊的な活動、たとえば、教会建設、伝道、霊的な奉仕、神学…に関してはまったく別の方法を取るべきだ。

なぜならば、霊的な活動は、もっぱら神の約束にしたがって行うべき性質のものだから。

教会成長学によって、この区別が撤廃された。

人々は、牧師の成功を教会の礼拝出席者で測るようになった。

私もよく「再建主義者は日本でどれくらいいるのですか」と聞かれたものだ。

尋ねる人は何を期待しているのだろうか。

「3人です」と答えたら「ああ、無視していいな」と思い、「1万人です」と答えたら「おっ、これは、見逃せない運動だ」と思うのか。

違う!!

誤解している!!

神の働きは、結果では評価できないし、評価してもいけない。

なぜならば、神の働きは人間の活動ではないからだ。

神の働きは、「御言葉にどう書いてあるか」によって判断しなければならない。

「御言葉には、神の国は必ず成長し、最終的に世界を支配するとある。だから、この神の国建設の活動は正しい。支援しよう。」と考えなければならない。

「様子を見て、有力になったら、乗っかろう」などと考える人は、不信仰だ。

神を冒涜している。

その活動が大きかろうが、小さかろうが関係ない。

御言葉に従っているならば、「すべて」重要な活動である。

だから、支援すべきだ。

われわれの活動はまだ少数の人々によって支えられている。

だから、クリスチャンのメディアも取り上げない。

これが人数が増えて、大きな影響力を持つようになったら取り上げるだろう。

そんなのは「クリスチャンの」メディアではない。

ノンクリスチャンと同じ「成果主義」に毒されている。

それは、トマス的である。

弟子のトマスはイエスの復活を信じなかった。

実際に目で見て確かめない限り、認めようとしなかった。

イエスは彼に対して「見ないで信じる者は幸いだ」と言われた。

非霊的活動については、成果主義でもいい。

しかし、霊的活動については、信仰主義でなければならない。

われわれは、神や神の言葉を裁く権利がない。

神が「イエスは復活する」と聖書で述べておられるならば、「はい、そうです。イエスは復活します」と信じなければならない。

「本当にそうかなあ。実際に復活したイエスを見ないと信じられないなあ」という人は、神の上に立ち、神を裁いている。

だから、偶像礼拝者である。

自分の理性を神の啓示の上に置くので、ヒューマニストである。

スーパーチャーチを作ったとか、礼拝を1日に5回やっているとか、礼拝出席者が合計で10万人だとか、牧師が女優と結婚したなどということを自慢にするような米国や韓国のキリスト教は、俗物である。

「そんなの関係ない。聖書的であるならば評価し、聖書的でなければ評価しない」という人だけが本物のクリスチャンである。

ピーター・F・ドラッカーが「非営利組織も成果を重視すべきだ」と言ってから、それを教会に適用する愚か者が現れた。

ここにサタンの罠が仕掛けられたことに気づいている人が何人いるだろうか。

 

 

2015年6月5日



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