異邦人キリスト教の決定的な問題


異邦人キリスト教の決定的な問題は、「自然理性を過剰に尊重する」ということと「超越についての無理解」である。

神の創造がしっかりと理解できていないから、自然に備わっている理性や能力を過度に評価する。

「聖書によらずとも、人間の能力でやっていける」と考える傾向が強い。

これが、キリスト教にとって足かせとなってきた。

ローマ・カトリックは、自然理性をかなり重視した。

啓示を補完的な意味にしか解釈しなかった。

そのため、独立した領域が生れ、結局、カントの「理性の完全自律」への道が開けた。

今われわれが見ている世界は、「理性の完全自律」の世界である。

誰も聖書に頼って生活しない。

頼る人があっても「教会生活と個人の信仰生活だけ」と限定する。

政治や経済などには考えを拡大しない。

そもそも、異邦人は超越ということがわかっていない。

超越とは、人間のあらゆる事柄を超えている。

神は、人間をはじめ被造物を一切必要としない。

神は、ご自身だけで自己完結しており、自分ひとりでやっていける。

人間が何をしようが関係ない。

これを自存性という。

神は自存のお方であり、誰からも影響を受けない。

すべてをご自身がたてた計画にしたがって、人間による干渉や妨害に関係なく物事を推進される。

人間とは、新幹線が進む線路上に立つ蟻のようなものだ。

神は超越しておられるということは、「人間が何をしても御計画を妨害できない」と同義である。

いや、さらに進んで、「推進役も、妨害役も、全部神が決定された」ということすら意味する。

神の国を妨害したユダですら、神の選びによってことを行った。

ユダが生れる何百年も前からユダの存在は預言されていた。


兄弟たち。イエスを捕らえた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。(使徒1・16)

つまり、神はユダを裏切り者として定めておられたということである。

ことは人間の努力によるものではない。

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9・16)

異邦人の神学は、異邦人の自然に対する重視と、神の超越性に対する理解の浅さによって、ゆがんできた。

これはある程度しかたがない。

われわれも、クリスチャンになったとしても、それまでの世俗の歩みの中で作ってきた様々な行動や思考の様式があって、なかなか聖書的に作り変えることはできない。

同じように、異邦人の中で成長してきたキリスト教も、その異邦人の行動や思考様式に影響を受けてきた。

神は相対化され、「同類感覚」で扱われてきた。

だから、聖人崇拝やマリヤ崇拝のようなことが行われてきたのだ。

神と人間の間には、無限の隔たりがある。

あらゆることは、神の超越的決定によってすでに予定されており、人間が何をしたからといってどうなるものでもない。

われわれは、神が勝利され、世界を支配され、世界のすべての民族が弟子化されることを受け入れるしかない。

悪魔は、霊的な知識はわれわれよりあるので、すべてを承知している。

しかし、徹底して堕落しているので、神に逆らうことしかできない。

神は手綱を緩めたり締めたりしながら、悪魔を利用している。

異邦人の思想に慣れ親しんでいる人々には、この説明でも理解が難しいだろう。

だが真理は真理だ。

 

 

2013年4月1日



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