秦氏が日本に入る前に試練があった。
朝鮮半島において新羅に邪魔をされたのだ。
そこで、応神天皇は援軍を任那(日本の植民地)に送って秦氏の来日を助けた。
大勢の秦一族は日本に渡りたい。ところが途中に新羅があって通過できない。そこで応神天皇は自分に一族を日本に渡らせるため援軍を大和朝廷の領土である任那に派遣し、新羅を抑えて無事秦一族を任那に移動させた。弓月の王=秦一族を率いていたモーセみたいな人。
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応神天皇は、なぜ秦氏を歓迎したのだろうか。
10万人もの人々を受け入れるとはよほどの信頼がなければならない。
それは、応神天皇自身が秦氏だったからだろう。同族だから招きいれたのだ。
応神天皇は、徐福とともにやってきたユダヤ人の子孫、つまり、物部氏であり、秦氏であったのではないだろうか。
始皇帝の「秦」は、ローマの大秦に由来する。
紀元前3世紀にローマは地中海の覇権を取りつつあった。秦は西域の国だったので、シルクロードを移動してローマからやってきた民族だったのだろう。
始皇帝と同族であった徐福も、ローマ系。
そして、漢訳聖書では徐福は「ヨセフ」なので(訂正:この情報は不確かである)、ユダヤ人。
つまり、徐福はローマ系ユダヤ人だったではないだろうか。
徐福は3千人の若者を連れて日本に移住。王国を作ったとある。
八咫烏によると、これが物部氏の起源。
だから、原日本である物部王国は、ローマ系ユダヤ人の王国であり、秦との関係から秦氏となった。
応神天皇は、自ら秦氏であったので、同じローマ系ユダヤ人であった弓月王とその10万もの人々を受け入れたのではないだろうか。
ということになると、朝鮮の伝説にある「東夫余国」の建設、つまり、江波氏の騎馬民族説とどう調和するかという問題になるが、これについてはさらに考察したい。