沼から出なさい


1.

人生は学校の連続である。

学校といっても、制度的なもの、たとえば、中学校、高校、専門学校、大学・・・ではない。

人との出会いである。

ある人(々)との出会いは、一つの学校であり、その学校で神が定められた課題をこなし、卒業しなければならない。

われわれは神の作品であり、その作品を完成するために、学校を用意しておられる。

Aという人と出あったら、そのAという人は、神の学校としてわれわれを教育するためにあらかじめ準備されていた人なのである。

「相性が合う人」もいれば「相性が合わない人」もいる。

「相性が合う人」は、だいたい初期の学校である。幼稚園や小学校みたいなものである。

そんなに難しいことを要求されない。

だから、「相性が合う人」という学校が連続してくるような人は、いつまでも小学生レベルなのである。

「相性が合わない人」は大学レベルである。大学レベルの勉強をさせられる。

苦しみを通じて、多くの難しいことを学ぶ。

卒業までたどりつかないことがある。

つらくなって自主退学しても、課題は残っているので、別の大学が用意される。

同じ試験を受けなおすはめになる。

この学校は、人ではない場合がある。

経済的な問題、病気、その他である場合がある。

聖書は、ずっと小学校が続き、小学レベルの勉強しかしてこなかった人にとっては難しい本である。

ダビデやヨブや士師の話、イスラエルの繁栄と捕囚、イエスの苦難、その他について、小学校しか出ていない人は、小学生レベルの内容しかくみ取れない。

大学に進学を許された人は、大学レベルの難しい内容のことを聖書から読み解ける。

神が用意される学校は、知的レベルと無関係である。

学識がある人が、高度な内容を理解できるとは限らない。

中学校レベルのカリキュラムで終わった人は、「神の法を押し付けるな。あれは、廃棄されたものだ」という。

大学レベルのカリキュラムを通過して、神の法に逆らう「人間の法」の残酷さをいやというほど体験していないから、神の法に好意を持てない。

神の学校とは、「知識」だけではなく「知恵」を得るために存在する。

大学レベルの知恵を得た人は、神の法に逆らうことがいかに自分にとって不利か知っている。

人生を通じて様々な学校を通過し、高度な知恵を得たダビデは晩年に「結局のところ、神の法を守れ。これがすべてだ」と言った。

知恵があったので、サウルに手をかけようとしなかった。

しかし、小学校しか出ていなかった人々は、サウルやダビデ、ダビデの子たちを殺そうとした。

ノンクリスチャンは世俗の知恵を得ても、霊的な知恵は得られない。

なぜならば、ノンクリスチャンには学校が用意されていないからだ。

ノンクリスチャンは、聖書を読んでも知恵を得られない。

ノンクリスチャンは、霊的に無学者である。

2.

霊的な死人や幼児たちが集まり、それが集団を形成した場合、高等教育を経て霊的な知恵を得た人はいずらくなる。

悪魔は、霊的な死人や幼児たちを利用し、悪魔の集団を作ろうとする。

それは、水の流れがよどんで腐臭を放つ沼のようなところである。

魚であるあなたは、臭くてたまらないから、一刻も早く逃げ出したい。

水の流れがよい広い湖に出るための一本の川がある。

あなたは、その川のほうに行きたい。

しかし、彼らはそれを嫌っている。あなたに沼に居続けるように様々な仕掛けを用意する。

沼には独特な掟があり、独特な救済措置が用意されている。

あなたが沼に居続ける意志を示すならば、それらの主たちはあなたを支援するだろう。

しかし、居場所がなくて、出たいと思った場合、彼らは、あなたの良心や恐怖を利用する。

「ここから出て、湖に行ってもやっていけないでしょう。」とか「沼でもまともに生活できないあなたに、湖で生活ができると思いますか」とか、「湖に行くのではなく、沼にとどまって、それを改革するために戦いませんか」とか。

後ろを振り返り、沼に戻っても、さらに状況は悪化する。

水が悪いので、健康が徐々にむしばまれる。

沼の魚たちとふたたび暮らし始め、連絡を取り合うと、とても疲れる。なぜならば、背後に悪霊がいるからである。聖霊を持っているあなたは不調和を感じ、聖書とは異なるルールに心をかき乱される。

その沼の主たちは、考えられないような不正や不義を行っている。

悪魔は、あなたがその沼で、彼らと同じように生活してほしいのである。

腐りきった生活にひたってほしいのである。

そして、さらには、その沼を拡大する先兵となってほしいのである。

沼を改革しようとしてはならない。

あなたが彼らに警告して変わらなかったのであれば、それは神の仕事になる。

神は、その沼を埋め立てるためにブルドーザーを用意しておられる。

3.

沼の主たちは、互いに見栄をはって生きている。

神に頼って救われるという体験をしていないので、互いの評価を異常に恐れる。

イエスは、パリサイ人たちが上座を好むと非難された。

互いに誰が偉いかを競っていた。

つまり、当時のイスラエルの宗教界は、腐った沼だった。

彼らは、金を愛し、つまらない無益な掟によって人々を縛り、真理を学ぼうとする人々を妨害していた。

自分たちの仲間に入らない人を迫害した。

学識はあるが、知恵のない人々の集団であった。

イエスは、弟子たちに「パリサイ人のパン種に注意せよ」と言われた。

つまり、「沼から出なさい」と勧められた。

イエスの仲間には、自由があり、規律があった。

こういう人々は、互いを縛らない。互いを利用しない。真理を重視し、仲間であるかどうかにこだわらない。

既存の秩序が腐ったら、出るべきである。

出口がない空間であれば、出口が見つかるように祈り、そして、神がその集団を裁いてくださるよう待つべきである。

 

 

2016年5月12日



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