神の三位一体は教育においても基礎である


教育において重要なのは、個物と普遍の両者をいずれも強調することである。

トマス・S・クーンは、科学にとって、普遍もしくは「パラダイム」「モデル」こそがもっとも重要だとし、「科学者はモデルから出発する」と述べた。(Thomas Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions (Chicago: University of Chicago Press, 1970), 2nd ed., p. 46)

科学者は、「裸の事実(brute factuality)」から出発すると主張するが、実際のところ、ドグマとか既存の学説から出発するものである。

じゃなければ、進化論などがこれまで生き残れるはずがない。

個別の事象で支配的な学説と合わないものはすべて切り捨てられてきた。

目の前で岩盤が引きはがされ、出てきた真新しい表面に恐竜の足跡と人間の足跡が重なり合っているのを見ても、「そんな馬鹿な」で一蹴された。


アメリカテキサス州パラクシー川流域の白亜紀の同一地層から恐竜と人間の足跡が100個以上も発見されている。それも、同じ岩盤の上に仲良く並び、あるものは、恐竜の足跡と重なり合っているのである。1930年代に巷に恐竜と人間の偽足跡が出回ったことから、科学的実証性が疑問視されていたが、1982年に、非創造論の学者の立会いのもと、マスコミ8社の記者とカメラマンたちの目の前で発掘が行われ、引き剥がされた岩盤の下から次々と、規則正しく交互に並んだ恐竜と人間の交互の足跡が出てきた。
http://www.millnm.net/qanda/giantf.htm
http://www.millnm.net/qanda/gfootp.jpg

ヴァン・ティルは、この時間の世界における普遍と個物の関係は、三位一体の神の関係に基づくべきであるとした。

三位一体の神において、一と多はいずれも究極であり、どちらがどちらから派生したものではない。

永遠の昔から一も究極であり、多も究極である。つまり、神は永遠に「一人」であると同時に「多数」でもあられる。

作り主の性質を反映するものとして、被造物も一と多で成立し、どちらか一方だけが究極で、他方がそちらに吸収されるべきもの、というわけではない。

すべての局面は平等に作られているので、現実のいかなる局面についても「それは他方よりも究極度が高い」と考えてはならない。そのため、被造物における「一と多」は、この点において、互いに平等であると言える。それらは平等に神から派生し、平等に神に依存している。そのいずれも神によって支えられている。宇宙の個物もしくは事実は、普遍と法にしたがって活動しているだけではなく、活動する定めでもある。それゆえ、被造物としての宇宙には秩序が存在する。他方、法が、個物を抽象的な個物に引き下げたり、個性をいかなる形であれ貶めることはありえない。(Van Til, The Defense of the Faith (Philadelphia: Presbyterian and Reformed Publishing Co., 1955), p. 43)

神の一と多が平等であるように、被造物の一と多も平等である。教育者は、生徒に対して、そのように個物と普遍の関係を説明しなければならない。

法則にこだわりすぎて、個物とか事実を軽視したり、また逆に、個物とか事実にこだわりすぎて、法則を無視するようであってはならない。

歴史教育が、事実の列挙に終わるのは、クリスチャン的ではない。

クリスチャン教育では、事実だけではなく、歴史に流れる普遍や法則を強調する。

今日の神学教育は、あまりにも個物に偏りすぎて、神の取り扱いの法則である契約を教えない。

歴代誌とかサムエル記において王がどう振る舞ったとか、何年に何が起きたとかだけで終わっている。

聖書の歴史的な法則とは、「神はアブラハム契約、モーセ契約にしたがって人々を取り扱われる」ということである。

契約を教えないクリスチャンの歴史教育は片手落ちである。

逆に、契約や法則だけを教えて、個別の事件や事実をスルーしては何にもならない。

ヴァン・ティルは、個物と普遍の往復を絶えず行うべきだと述べている。

個物や事実を教えたら、そこから教訓を学び、教訓や普遍を学んだら、個物に向かう。

神の三位一体は、教育においても基礎である。

 

 

2012年5月31日

 

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