聖書は自己完結した書物である


よくプレテリストに対する批判として、


イエスは「昇天されたと同じ姿で来る」と言われたではないか。そんなことが紀元70年にあったのか。紀元70年に携挙があったのか。そんな歴史的記録はないが。

という人がいる。

あったのである。

なぜならば、聖書がそう言っているからである。

歴史的記録にないから「なかった」という結論を付けるならば、「聖書は聖書によって解釈する」という原則を破ったことになる。

聖書以上の権威がない以上、聖書に「紀元70年にイエスの来臨と携挙があった」と述べているならば、「あった」のである。

聖書に裏付けは必要ない。

聖書は神の言葉である以上、信仰の対象であって、疑いの対象ではない。

パウロは、「生き残っている私たちが」と述べている。

私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4・15、17)

つまり、携挙はパウロ及び同時代人が生きている間に起きると述べている。

イエスの来臨は、イエスと同時代人が生きている間に起きる。

まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」(マタイ16・28)

イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」(マルコ9・1)

イエスの来臨は、昇天と同じように起きる。

イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1・10-11)

これらの聖句から、イエスは、同時代人が生存中に、昇天と同じ有様で再臨されたと結論しなければならない。

歴史的記録などどうでもいい。

聖書は自己証言だけで真理たりえる。

聖書信仰とは、「聖書は聖書によって解釈する」という原則を持ち、聖書を「自己完結している書物」としてとらえることを意味する。

だから、科学的なアプローチとはまったく異なることを肝に銘じるべきだ。

 

 

2013年7月12日



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