特定の場所や日、食物などにこだわる宗教は偶像礼拝である


1.

フェイスブック上でも終末論は大流行だ。

アメリカ人の「クリスチャン」がすっかり洗脳されている。

トランプは終末のしるしだという。

またか。

ヒトラーが現れたら反キリストといい、毛沢東がそれだ、スターリンがそれだ、ムッソリーニがそれだ、・・・

911が起きたら終末は近いとか。

こんな与太話を、なんと1830年代(日本では江戸時代)から繰り返している。

当然のことながら、当たったためしがない。

なぜ黙示録の「わたしはすぐに来る」「これはすぐに起こることだ」という御言葉を無視するのか。

なぜマタイ24章の「これらの前兆はこの世代が過ぎ去らないうちに起きる」を無視するのか。

2.

明らかにイエスは紀元70年に再臨された。

神殿崩壊は、旧約の礼拝システムが崩壊したことを象徴している。

それ以来、神殿はキリストとクリスチャンの体になった。


あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(1コリント6・19)

イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。(ヨハネ2・19-21)

旧約時代において、礼拝は、エルサレムで行った。

しかし、新約時代においては、礼拝はクリスチャンがいるところ、どこでも行える。

イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。(ヨハネ4・21)

私は、まだ支援者がいなかったころは、毎日曜日一人、車の中で行っていた。

警察に職質されると「礼拝をしています」と答えていた。

クリスチャンがいれば、いつでもどこでも礼拝ができる。

なぜならば、クリスチャンの体は神殿だからだ。

紀元70年以降、礼拝のシステムは、完全に変化した。

しかし、それはまったく新しい基準による新しい別の宗教になったという意味ではない。

旧約聖書の本質であるキリストが現れたので、「実質化」したということである。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4・23-24)

今は「霊とまことによって父を礼拝する時」なのである。

神の法は、「豚やうろこのない魚を食べるな」という「模型的」な規則から、「動機によって聖俗を区別する」実質的な規則に変わった。

つまり、われわれは豚やうろこのない魚を食べてもいい。ただし「神の栄光を現すためではない食事」をすれば、たとえ牛やうろこのある魚を食べても汚れる。

「酒やタバコをたしなむのは罪だ」という規則はない。酒やタバコを断っていても、神の栄光のためではないならばお茶を飲んでも汚れる。

神中心ではないものが生活の一部でもあれば、その生活は汚れる。

全的に献身していない部分が一箇所でもあれば、悔い改めの対象となる。

クリスチャンにとってモノそのものに善悪はない。

モノそのものによって汚れ、それによって害を受けることもない。

イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。
そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。(マルコ7・18−19)

蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず」(マルコ16・18)

人に害を与えるのは、心である。

また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7・20-23)

外側のものにこだわる時代は過ぎ去った。

内側のものこそ重視すべきだ。

このように新約時代になってクリスチャン生活の原理が決定的に変化した。

だからといって、めちゃくちゃなことをしてよい、というわけでもない。

毒物を摂取してもいいというわけでもない。

これは、神を試すことである。

これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。(1テモテ5・23)

健康のために食品に注意しろ、との教えである。

人間は、「健康を維持するために努力し」、そして、「神に委ねる」べきである。

これは、「6日働いて1日休む」原理である。

人間の側の努力を6日して、神の奇跡の1日を待つ。

医療をすべて拒否しろ、という教えは聖書にはない。

医学を発達させ、治療法に関して研究すべきである。

しかし、それだけでは、病気は治らない。

神の癒やしを待つべきである。

「地を従えよ」という人間の使命は、科学の知識の獲得とその応用を含む。

3.

タルムードに汚染された今のキリスト教は、旧約と新約の経綸の区別があいまいである。

1にあげた原理的な違いがある。

イエスが十字架にかかられて「成就した」と言われたときに、旧約聖書のすべてが成就したのである。

だから、われわれは、旧約聖書の原理によって縛られるべきではない。

モノそのものにこだわったり、特定の土地を聖地と呼んだり、特定の日付を聖日と呼ぶべきではない。

イエスは天地にあるもの一切を神と和解された。

その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)

万物はきよい。

動機によって汚れる。

そういう時代になったのである。

4.

すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。(1コリント10・23)

つまり「何を食べてもいい。豚でもウナギでも食べていい。しかし、動機が悪ければ有害であり、人を堕落させる」ということである。

旧約と新約の経綸の違いを区別しないキリスト教は別のメシアを求める別の宗教である。

特定の場所や日、食物などにこだわる宗教は、偶像礼拝である。

 

 

2017年9月4日



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