後千年王国説だけが聖書的である


「よく千年王国説は、どれが正しいとは言えない。だからうちの教会は特定の千年王国説を取らない」という言い訳をする牧師がいる。

しかし、千年王国説は、キリスト教の中心である。

なぜならば、それは「地を従えよ」との中心命令をどうとらえるかに関わっているからだ。

前(プレ・ミレ)か無(ア・ミレ)か後(ポスト・ミレ)のいずれを選択するかによって、そのクリスチャンの生き方はまったく変わる。

前か無を取れば「この地上でクリスチャンは勝利できる保証はない」となるので、「地を従えよ」の命令に確信が持てない。

聖書は無数の箇所において「サタンに立ち向かえ。勝利できるから」と教えているにもかかわらず。

前も無も非聖書的である。

だから、捨てるべきだ。

後だけが聖書的である。

前は、クリスチャンは未来の千年王国の到来まで地上において王ではないと言う。

無は、クリスチャンは今の時代において「天において」王であるが、地上においてはそうではないという。


ここでは、千年の間、「たましい」がキリストと共に支配していると言われている。無千年王国論者は、それを、天において肉体を離れた霊魂が千年間キリストと共に霊的に支配する と解釈する。
http://www.millnm.net/qanda/amill2.htm

結局、キリストの「天地において一切の権威が与えられた。だからすべての国民を弟子とせよ」との御言葉を無視している。

「悪魔に立ち向かえ。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去る」との御言葉も無視している。

「神は、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださる」との御言葉も無視している。

無千年王国説は、聖書的ではない。

聖書によれば、現在、この地上において、われわれが戦うならば、敵はいないのだ。

だから、信仰によって自分を完全に武装せよ。

一点の疑いも無用だ。

地上を改革するために立ち上がれ。

地上をどれだけ改革したかによって、永遠の報いが変わってくる。

イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』
管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、物ごいをするのは恥ずかしいし。
ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言うと、
その人は、『油百バテ』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい』と言った。
それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、『小麦百コル』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい』と言った。
この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。(ルカ16・1-12)

「不正の富」とは「不義の富」ではなく、「まことの富」の逆である。

つまり、「はかなく消えてしまう富」「地上の富」である。

ここでイエスは、地上の富を用いて「永遠の住まい」に入る準備をせよと命令している。

地上の富は「小さなこと」であり、「他人のもの」である。

われわれが地上で与えられる財産や機会、家族、仕事、権力、地位…は、永遠の住まいで与えられるものと比較すれば、すべて「小さなこと」であり「他人のもの」である。

われわれはこの生涯において、テストされている。

小さなことや他人のものを任されている。

これらをしっかり管理すれば、永遠の世界において大きなことや自分のものをまかせてくださる。

不正な管理人は、前の仕事についている間に、退職後の心配をし、手を打っておいた。

このような抜け目なさをわれわれも持つべきだ。

「今の人生なんて過ぎ去るのだからどうでもいい」というわけではない。

「この過ぎ去るはかない今の人生をどのように管理し、永遠の世界に入るために準備したか」を問われる。

後千年王国説は、「この世界をキリストの御国に変えるべきである」と唱えるだけではなく、「それをどれだけ効果的に熱心に行ったかによって、永遠の運命が変わる」とも教える。

前千年王国説や無千年王国説は、地上を軽視する教えである。

地上支配をあきらめているので、軽視せざるをえないのである。

だから、永遠の世界に入る準備もできなくなる。

聖書的な教えは、後千年王国説だけである。

 

 

2013年7月30日



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