四国そのものが神社である5
剣山と高野山と伊勢神宮を結ぶと一直線になる。(内宮のほぼ真上を通過する)
しかも、高野山の位置は、ほぼ中間点になる。
これは偶然ではないだろう。
おそらく空海は、剣山と伊勢神宮を結ぶ直線の上にある高野山を修行場に選ぶことによって、自らの教えの本当の意味を暗示したのであろう。
その教えとは、次の1と2を結ぶ教え。
1.剣山=鶴亀山=イエス・キリスト山
2.伊勢神宮=伊蘇神宮=「天地を仲介する者がよみがえる」神宮=イエス・キリスト神宮
つまり、イエス・キリストである。
高野山はイエス・キリストを指し示している。
空海が示したかったのは、イエス・キリストである。
もう一度いろは歌の表を見てほしい。
3つの隅にある赤字を結ぶと「いゑす」となる。
つまり、「いゑす、咎なくて死す」と読める。
空海が示したかったこととは、イエス・キリストの贖罪である。
だから、高野山には十字架があるのだ。
景教碑も、このことに気付いたゴードン夫人が寄贈したのだろう。
真言宗の本質とは、実は景教だった。
2013年2月24日
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