聖書的キリスト教は徹底的な神中心主義である
われわれは、人々をキリストのもとに導くように召されているが、それは「彼らが最高の人生を送ることができるため」ではない。われわれの目的は、彼らが、万物を治め給うキリストの主権を認め、生活のあらゆる側面において自らの信仰の内容を実践するようになることにある。キリスト教は、信仰であると同時に責任でもある。
――R・J・ラッシュドゥーニー
http://bit.ly/SellingResponsibility
「あなたは愛されています」とか「あなたは最高の自分を実現してください」などの文句を講壇から聞く。
牧師も信徒も完全に聖書を誤解している。
われわれは、愛されるために救われたのではない。
最高の人生を送るために救われたのでもない。
われわれは、神が幸せになるために救われた。
神が栄光を受け、御心が実現し、世界が御国に変わるために救われた。
自分の栄光や資産、人生など、正直、どうでもいいのである。
そんなことに聖書は焦点を当てていない。
創世記から黙示録まで徹底して「神の幸せ」が説かれている。
世界は神によって創造された。
なぜ?
神の栄光のため。
歴史は神によって終わる。
なぜ?
神の栄光のため。
人間は、道具である。
人間は、神の栄光を実現するために自分を犠牲にして働くように作られている。
われわれは、クリスチャンになるときに「私はどうなってもかまいませんので、御心がなるために、後の人生をお使いください」と宣誓する。
もしこれと異なることを宣誓したならば、それは、偽りのバプテスマである。
この宣誓ができないのであれば、あなたは、本当は救われていない。
聖霊が内側にいらっしゃるならば、これを告白できるはずである。
教会で「主イエス・キリスト」と叫ばれているが、「主」とは何か。
あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(黙示録2・10)
主とはしもべに対して「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」と言われる存在である。
私のために自分の命を投げ出せ、と命令する存在が主である。
「イエスはあなたのために十字架につかれた」という文句だけが一人歩きし、キリスト教があたかも人間の幸福を実現するための教えであるかのように扱われているが、実際は、逆である。
聖書的キリスト教とは、徹底的に神中心であり、人間は神のために命をかけるしもべである。
2017年9月15日
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