つまづきとなるものを切り捨てよ
『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイ5・27-30)
(1)
契約に入る条件は、信仰である。
イエス・キリストを信じる信仰があれば、契約に入ることができる。
しかし、たとえイエス・キリストを信じていても、ある行為を行えばそこから追い出される。
その行為の一つがここに述べられている。
「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」
姦淫する人は契約から追い出される。
実際に行為においてそれを行うだけではなく、心の中において姦淫を犯す人も契約から追い出される。
だから、クリスチャンでなおかつ「不倫をしている人」や「情欲をいだいて女を見る人」は存在できないのである。
「そんなこと言ったら誰も契約に入れません」と言われるかもしれない。
たしかに。われわれの頭の中で行われることすらも評価の対象となるならば、われわれは誰も契約にとどまれる人はいないだろう。
問題は、「方向性」なのである。
その罪の中に拘泥するのか、それとも、そこから抜け出て高いところを目指しているのか。
罪を開き直って犯す人はクリスチャンになれない。
神はその罪を暴いてそのクリスチャンが契約にとどまり続けられないようにされるだろう。
しかし、自ら自分の罪を裁き、悔い改めるならば、とどまることができる。
なぜならば方向性として上昇しているから。
できるだけ契約にふさわしい人間になろうと努力する人を神はないがしろにされない。
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51・17)
(2)
「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」
契約から追い出されて永遠の地獄に落ちるよりは、たとえ体の一部であっても切り捨てるべきだ。
それを通じて自分が実際もしくは心の中で姦淫を行うならば、そのものがいかに高価であっても捨てるべきだ。
神の御前に上昇する姿勢がなければ契約のメンバーではない。
罪に拘泥し、もしくは、さらに堕落することを放置するような人は、契約のメンバーではない。
神と自分の間に何か邪魔するものがあれば、それを切り捨てよ。
それを大事に持っていると、永遠の刑罰に落ちるだろう。
2012年10月31日
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