三神論は異端である19


「神は誰が作ったのか」という質問をする人がいるが、「神は誰にも創造されない存在の根源、第一原因」なのである。

「なぜ神は三人おられるのか」という質問も同じ。

「神は元初から三人おられるのである」。

「御父から御子も聖霊も出た。もともと神は一人であった」というのは、異端である。

「元初から三人おられ、それぞれが存在の根源」なのである。

「契約的・法的に一人とはどうしてか。契約や法が神よりも先にあったのか」という問いには「契約や法は、ご自身の属性・性質であり、神ご自身が契約と法を結ばれ、法人として一人として存在するお方なのだ」と答える。

それゆえ、神の属性が永遠であるのであるから、契約や法も永遠である。

「神は義・愛・真理なのか」という問いには「神『が』義・愛・真理なのである」と答える。

「義・愛・真理」というものがまず先にあって、神がそれに合致するというのではなく、神ご自身の属性が「義・愛・真理」なのである。

聖書が仮に「Aさんは正義に基づいて行動し、愛情があり、ウソをつかないすばらしい人です」という場合、それは「神以前に存在する基準に合致している」という意味ではなく「Aさんは、神に似ている人です」という意味である。

神が「義・愛・真理」の基準であり、定義なのである。

堕落とは「神に似なくなる」ということである。

1メートルの原器に向かって「これは本当に1メートルなのか」との問い愚問であるのと同様に、「神は義・愛・真理か」も愚問である。

われわれが神を認識する場合、「聖書が述べていることは不動の真理である」という前提から出発しなければならない。

聖書の神を自分の基準や他の基準などで評価するのではなく、「神は最初から3人であり、契約によって一人として存在される義・愛・真理のお方である」という聖書啓示を前提として、そこから出発しなければならない。

「御子は御父から『存在論的に』生まれた」という人は「元初から神は3人であられた」という真理を前提として受け入れない人であり、それゆえ、クリスチャンとは呼べない。

教会はこのような人を除名すべきである。

神は、岩から切り出された二枚の板に「ご自身の指で」十戒を記された。


その後、主は神の指で書きしるされた石の板二枚を私に授けられた。その上には、あの集まりの日に主が山で火の中から、あなたがたに告げられたことばが、ことごとく、そのまま書かれてあった。(申命記9・10)

これは、「十戒とは人間の意思がまったく入っていない純粋な神の命令である」ということを意味する。

十戒は「義の定義・原基準」なのである。

神は「これが人間が守るべき戒めである。以上。」と言われた。

「質問・疑問・コメントは一切受け付けない」と。

聖書啓示全体が、このような「宣言」なのである。

だから「御子は御父から『存在論的に』生まれた」というような人は、神の宣言に対して挑戦する者であり、それゆえ、神のライバルである。

すべて「聖書はそう言っているかもしれないけど、私は・・・と考える」という人は、神のライバルであり、永遠の滅びに定められる。

この世界に究極の主権者は二人いない。

神に逆らって滅びるか、悔い改めて救われるか。この2つに一つしかない。

われわれは、聖書が啓示する三位一体を「ありのまま」受け入れるしかない。

それに逆らう議論は無駄であり、有害である。

 

 

2018年11月30日



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